Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

仙台市復興計画案

2011年11月14日 21時01分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 11日(金)・12日(土)に仙台を訪れ、仙台市震災復興室の方から仙台市の3.11震災被害状況と復興計画(中間案)を聞き、仙台市周辺の被災地を視察する機会を得た。
 11日は被害状況と復興計画案の講義を受けた。
 東部海岸沿いの宮城野区と若林区が巨大津波の直撃を受けたことは記憶に生々しい。二つの区の人口の7%近くの2万2千人あまりが津波の被害を受けたという。政令指定都市としての仙台は行政上の権限も財政も職員の職種もほぼ県に近いものがあり、被災を受けた他の自治体とは違った力を発揮することが出来ていた。また政令指定都市相互の支援もスムーズな面があったことは否めない。
 それでも他の自治体が業務をアウトソーシングし、指定管理者制度で人的にも枯渇した事態でこの災害に対処しなくてはならない点、自治体のほぼ全域に被災地がまたがる自治体よりはゆとりがあることは確かだ。しかし長期にわたる人的支援がなければ立ち行かない状況には変わりはない。
 震災復興計画は5カ年計画で現在中間案をパブリックコメントにかけているとのことだが、ここまでこぎつけることが出来た政令指定都市の底力の必要性を実感した。政令指定都市大阪市を解体しようなどというとんでも前知事などははやく消えてしまってほしいものである。
 東部の津波被害地区を受けた地域の復興には海岸堤防・海岸防災林・丘状の公園・嵩上げした県道、そして今回津波の前進を止めて有名になった高速道路仙台東部道路などの5重もの坊潮施設を計画し、宅地の集団移転を含むなど向こう数百年を射程に入れた計画とのことであった。
 しかしこの計画に魂が入るか否か、都市施設だけの計画になるのか、都市活力の新たな創造となるのかはこれからの事業の進め方次第となることは確かだ。これがむずかしいのである。

 12日は荒浜地区など瓦礫集積場や、当時高台避難場所として有効であった高台の公園などを視察させてくれた。仙台の中心部から海岸よりに行くに従い、マンションなどのビルの民地部分に亀裂や段差が目に付くようになり、歩道上の下水などのマンホールが液状化で浮いている箇所が目に付くようになった。
 津波が押し寄せた区域に入ると一面見渡す限り元田んぼ・畑地と、宅地の基礎ばかりが目に付いた。また異臭が鼻をつくようになった。元田んぼ・畑地は泥にまみれ、除塩・土の入れ替えにどのくらいの資力と年数がかかるか想像できなかった。宅地も亡くなった方が多数いるかぎり、土地の買い上げも相続者の探索・同意を得るため膨大な労力を考えると呆然とした。
 防風林がまばらになりほとんどが大きく陸側に傾いていた。直径20cmはある街路灯の支柱が90度以上曲がっていた。海水浴場であった荒浜地区では津波に倒された「津波警戒地区」の看板が無残に見えた。
 案内の方の発言では、震災直後は田畑のいたるところに自動車が転がり、やはり津波に流された被災家屋が転々としていて、ここまで整地されるのに何年係るか呆然としたと言うことだったが、今では整地まではきれいに出来ていた。
 そして冷蔵庫・エアコン室外機・テレビ・その他電気製品・コンクリート・木材・畳・瓦・化学製品・土砂・タイヤ・車両等に分別しながらの瓦礫処理には目を瞠った。異臭がするなか、広大な瓦礫処理場での業者の大勢の作業員に頭が下がる思いがした。 

 さて、仙台空港に向かう途中、仙台市を外れ南の名取市に入ったときびっくりした。津波の被害を受けたと思しき地域に新築の家々が並ぶ箇所に遭遇した。津波の被害のあった箇所に家が新築されていたとしたら、と疑問が湧いた。仙台では西部の山側への集団移転を計画し、今でも家は再建されていない。すぐ隣の自治体ではそうはなっていないようである。仙台市の復興計画は周辺の自治体との整合性は取れていないことにならないか。名取市や仙台市と宮城県の復興計画は県の段階で調整が行われたのであろうか。
 被害を多く受けた石巻や女川や気仙沼などの自治体も含めた県自体の復興計画ははたして有効なものなのだろうか、という懐疑が湧き出てきた。機会があれば宮城県の復興計画も聞きたいものである。

 実は11日には、神戸の震災から16年たったことを踏まえた神戸の震災復興都市計画事業を振り返っての講義もあったが、これについては割愛させてもらう。書き留めておきたいことは、都市施設の復興、再開発という街づくりも高齢化社会、格差社会の中で活気ある復興に至っていないという発言がとても気になり、印象に残ったということだ。