Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

俳句の季重なりについて

2011年11月23日 11時04分54秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 大納言様からいつもうれしいコメントをいただいています。夏目漱石の俳句を取り上げた私の昨日のブログに、「蚊は夏の季語、当然蚊帳も夏の季語ですよね。でもこの句は秋。このへんはどんなふうに解釈されてきたのでしょう。Fsさんはどう読みました?」とコメントをいただきました。
 素人ですが、私なりの考えをコメントしましたが、補強の上、以下に再掲します。

 私は「俳句は季感を大切にするよう」に教わりました。普通、季重なりを避けますが、「ふと揺れる蚊帳の釣手や今朝の秋」という俳句の場合「今朝の秋」が句意の中心ですから俳句の季感は秋、秋の初めです。暦の上では秋なのでしょう。蚊帳はまだ残る秋の蚊を避けるためと理解しました。あるいは晩夏の暑苦しい中にかすかな秋の気配を感じたのかもしれません。
 蚊帳に付随する季感はこの俳句ではあくまでも「従」です。二つの季語が等価であったり、相矛盾する場合は俳句として分裂しますので、極端に短い詩形である俳句では避けます。
 現代は季語が多数になり、それにとらわれすぎると俳句ができなくなります。俳句の季感をしっかり踏まえれば問題ないと思っています。
 歳時記をパラパラとめくると飯田蛇笏の俳句に「かりかりと残雪を喰み橇をひく」が出てきました。これも残雪(春)と橇(冬)の重なりですが、季感は明らかに春です。もう一つ例をあげると「枯はちす月光更けて矢のごとし」(岡本眸)もありました。枯はちす(枯蓮)は冬、月光は秋ですが、この場合、枯はちすの描写が主ですからこの俳句の季感も冬です。
 私は「ふと揺れる蚊帳の釣手や今朝の秋」は「秋」を見つけたことに主眼がありますので秋の句として、鑑賞しました。
 いかがでしょうか。