Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

休肝日

2013年08月02日 23時42分44秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 今年に入って初めてだと思うが、本日は休肝日。
 先ほどブログをアップしたときは、寝る前に飲んでしまっては休肝日にならないと思い、何も記さなかったが、この分では多分飲まずに就寝となりそう。

 こんなことを記載するとアルコールが無いと生きていけないような状態の半病人に思われてしまう。
 そんなことは無い、いたって健康的な人間であると本人は確信している。だが、多くの友達が週に1日や2日は休肝日を設けているといっている。どうも私はそれがうまくいかない。それではいけないと思ってはいるが‥。

 家で飲むときはビールレギュラー缶1本か、焼酎5勺か、日本酒1合。外で飲むときはこの2~3倍といったところか。これをずっと休みなく続けてしまう。いくら量が少ないとはいえ、肝臓を休ませる、あるいはアルコールを摂取しないということが大切だということは、充分認識をしているが‥。実行できないということは認識していないのと同じである、とは組合の役員をしていたときに、お酒で失敗した組合員に私がした「意見」である。何ともいい加減な説教だったことになる。

 それでも現役で仕事をしているときは、年に2~3回くらい風邪でダウンしていた。そのときは3日ほどはアルコールを抜くので、それが年間の休肝日であった。昨年定年から1年3ヶ月。確か風邪をひいていない。健康的でいいのだが、その分休肝日がない。これではまずい。

 こんなことをグダグダ書いていると手厳しいコメントが寄せられるかもしれないが、それも歓迎すべき賑わいということにしておこう。

同窓会資料の印刷

2013年08月02日 21時13分18秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日はいつものようにみなとみらい地区までウォーキングで午後の講座を受講して帰宅。途中で講義のレジュメのコピーと、大学の同窓会のA3資料を画像にスキャン、そして喫茶店で一服した以外は寄り道もしなかった。
 喫茶店に寄った以外、なかなか品行方正な受講者、学生を演じているようで何となくこそばゆい。小学校低学年以来の快挙ではないだろうか。中学校に入学してからは毎日かならず書店によって立ち読みをして帰宅するのが常であった。
 高校生のころは書店には必ず寄ったが、それ以外に紅葉坂の県立青少年会館によって展示を拝観したり、横浜駅西口や伊勢佐木町で書店以外のどこの店によるわけではないが商店街をただただ見て歩くのが趣味になった。帰宅はいつも7時近かった。
大学では‥言わぬ方が良さそうである。記載せぬことにしよう。

 さてその大学の同窓会の資料を印刷しながらこれを書いている。印刷だけは日曜までに仕上げておこうと考えている。全部でA4で13~14枚、A3で3枚位の分量の予定。新聞記事がマイクロからのコピーなので読みにくいのだが致し方ない。仙台市史にも2頁にわたり記載があり、「光栄」の至りということにしておこう。
 同時にあの騒動が東北地方の2~3年後の官民の雇用計画や経済に極めて大きな影響を与えたことがうかがえる。官民こぞって各種団体から大学の運営に対して大学当局の責任追及が苛烈だったとあとから聞いたことがある。
 今この歳になって、もしあの時学生として騒動の中心的な当事者であった私たちが、大学の教官で運営の責任者であったとしたらどのように対応しただろうか。そのことが、2回目の相談会の終りかけた頃で議論となった。
 酒の席ではなく、いたってまじめな顔をして話をした。その議論は、ここで披露できるほど深化は出来ていないし、私も消化できていない。ただ、私は労働組合の役員としての経験からの意見は言ってみた。今後の議論となると感じた。否、していきたいと私は思っている。他の参加者がどんな反応を示すだろうか。
 当然議論したくない人もいるだろうし、私が勝手に議論の柱として提起するわけにも行かない。これから何年もかけた議論なのだろうと思う。

 この歳になって、40年も前の経験をたよりに20名近い人が集まる、集まってもらうということは大変なことである。経験をもうしまいこんでしまいたい人もいる。社会に対する視点も、当時の経験を見つめる視点も40年の人生経験で大きく変わっている。変わっていて当然である。変わっていなければおかしいともいえる。
 しかも同じ仕事をしている職場などでも人に集まりに参加してもらうということはとてもエネルギーがいること、同じ行動をしてもらうということが如何に大変なことであるか、ということをこの40年、嫌というほど経験してきた。他の人も職業を通して同じように感じてきたと思う。当時あれだけの人が動いたということ、そして40年後の今20名近い人間が、仙台というところまで体を運んでみようということ、この皆の意欲・エネルギーを大切にしたいと思う。
 どんな議論がなされ、どんな風に深化するか、その一助、きっかけになる資料であって欲しいと思っている。