Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「激動のOKINAWA42年」展

2013年08月06日 22時28分46秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 横浜の関内にある日本新聞博物館で「琉球新報120年企画展 報道カメラマンが見た激動のOKINAWA42年」と題する長い名前の企画展を見てきた。
 副題は「沖縄を追い続ける(琉球新報報道写真映像部)山城博明の眼差し」とこれまた長い副題がついている。本題、副題、ともにこの長い命名にはどのような意図が込められているのか、部外者には想像できない何かがあるのだろう。

 さて私が沖縄ということを自覚的に捕らえようとしたのはいつであったろうか。高校の歴史の時間に沖縄という地域が戦後米軍占領下に置かれているということは授業で聞いて知っていた。しかし自覚的に沖縄に関する報道を注視したり、自分から進んで勉強することはなかった。
 自覚的に沖縄を中止するようになったのは、随分遅かった。大学に入ってからクラスの仲間の問題意識に触発されて新聞記事を丹念に読んだり、デモに参加したりした。しかし私にとってもっとも衝撃的だったのは1970年12月20日のコザ暴動であった。当時の「復帰」を巡って沖縄はさまざまな利害が対立していた。基地に経済の80%を依存し、飲食街も米軍の存在に依存していた。報道を見る限り、この飲食街の従業員も多数加わる形で鬱積していた米軍への反発が一挙に噴出したのがこのコザ暴動であると私は理解した。飲食外の従業員も加わったからいいとか悪いとかの話ではなく、米軍の力による沖縄支配が、ベトナム戦争の激化の中で強権的なものにますますなっていく状況が如実に反映しているのだなぁと感じた。
 同時に基地に依存しながら、基地の雇用に依存せざるを得ない中での、米軍支配からの脱却を「日本復帰」という形でしか表現しきれない沖縄の置かれている当時の切実な困難をあらためて私なりに痛感した。
 それが「日本復帰」という形に収斂されてしまう虚しさも同時に伝わってきた。
 また騒擾罪適用などの議論の中で、今回の「創刊120年」といわれる琉球新報も含めたマスコミは「暴動」ではなく「コザ騒動」という名に統一を始めた。今でもそうらしい。しかし展示では「コザ暴動」となっている。当時は私はこの用語の扱いに違和感を強く持った。同時に複雑な当時の、あるいは今も、沖縄の人々の置かれた状況の中で爆発的に突出したこのエネルギーを前に、私はたじろいだことも思いだす。
 これ以上自分が何をいいきれるかは自信がないので、この辺まででしておくが、このコザ暴動という大事件が、私に「沖縄」を突きつけた感じがした。
 残念ながら今回の展示では、暴動事件の最中の臨場感のある写真はなかった。翌朝、転覆され放火されたあとの車両が写され、そこを見つめながら、避けながら地域の子供を含めた人々が行き交う場面が写されていた。臨場感ある写真を琉球新報が手に入れられなかったのか、あるいはカメラマンが現場に居合わせなかった、そこら辺はわからない。いなかったらいなかったで、事件後の現場を巡る人々の視線を追った写真があればよかったのに、とふと感じた。
 もうひとつ「沖縄」に関して、私に衝撃的だったのがいわゆる「復帰後」に当時の皇太子夫妻が訪沖し、ひめゆりの塔を参拝したときの火炎瓶投擲事件である。
 「復帰」だけが選択ではない「沖縄・琉球の自立、独立までも見据えた」スローガンを主張したグループによる行動の突出である。同時に天皇の戦争責任を明確に主張した事件でもある。そしてそれが本土ではなく「沖縄」の人々によってなされたという象徴的な事件である。これについても展示がなされている。私にはあらためてこの事件を頭の中で反芻するきっかけとなった。
 報道写真の展示であるから、事件の背景や当事者の主張は書かれることは無いのだが、この事件が風化することなく、この一枚の写真によってせめて残されることを期待したい。なお、この写真については読売新聞に掲載された写真を掲げてある。コザ暴動の扱いと違うのもちょっと気になっている。
 ハジチという刺青、古来からの沖縄の祭りの様子などもかつてどこかで展示されているのを見た記憶がよみがえってきた。
 初めて見たのは沖縄戦での「集団自決」によって傷つけられた傷跡の生々しい人々の肖像写真の数々である。「集団自決」という名の「死の強制」が時間の風化の中で美化されようとしていることは許されることではないと思っている。

 チラシの表の、丸い筒型の鉄条網の先に米兵が映っている写真、これはなかなかいい視点だ。文句をつけるとすると、視線が強すぎる。写真を撮影する側からすると視線が強すぎる。米兵の視線に、事態に対する恐れと逡巡とそれにともなう強い敵愾心を読み取ることができるが、対する撮影者の視線としては今の私には強すぎる。このカメラマンの視線は筒型の鉄条網の先から銃口のようにこの米兵を射ている。報道写真・告発写真としてはこれでいいのかもしれないが、あるいは沖縄の人々の視線としては理解できるが、また当時の社会情勢としても理解できる。だが、今の私には強すぎる。


 なお、8月24日から10月20日まではこの新聞博物館で「92歳の報道写真家福島菊次郎展」(ヒロシマからフクシマへ-。戦後、激動の現場)が開かれる。広島・安保・東大闘争・あさま山荘・三里塚・ウーマンリブ・水俣‥などがテーマとのこと。


         







68回目の広島忌、そして本日は4つの博物館

2013年08月06日 20時58分24秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 本日は、広島の被爆68年目。広島の平和記念公園で平和記念式典が行われた。そして昨日は沖縄で米軍のヘリコプターの墜落事故で米兵1名が死亡。

 お昼からは、4つの博物館を巡った。
 一つ目は、関内にある日本新聞博物館で開催されている「琉球新報創刊120年企画展 報道カメラマンが見た激動のOKINAWA42年」という長いタイトルのついた企画展。
 二つ目と三つ目は、横浜都市発展記念館と横浜開港資料館で同時に開催されている「関東大震災90周年被災者が語る関東大震災」をともに見てきた。この企画展は横浜市史資料室でも同じ企画展があり3館の合同企画のような形になっている。
 四つ目は、横浜市歴史博物館での「水へのいのり」展。

 さすがに草臥れた。一つ目は本日中に、新聞博物館の企画展の感想からアップしていく予定。