夏休みで混雑しているのではないかと敬遠していた東京国立博物館であったが、特別展「和様の書」は学生向きではないためそれほど混雑はしていないという情報があり、また特集陳列で「縄文土器に飾られた人物と動物」展に惹かれたので、暑い日であったが見学してきた。
まずは「縄文土器に飾られた人物と動物」展から。

縄文土器の形状や土偶、人面などの造形にわたしはとても惹かれる。形も面白いし、どのように使われたか、何を盛ったか、何を祈ったか、など想像しても解けないことばかりである。それが魅力である。しかも、中期は中部や関東、後期は東北で数多く作られている。どちらかというと東日本・東北日本が縄文時代の中心地であったらしい。
縄文土器に描かれた人物の表情はなかなかユニークだ。どのような感情を表しているかはとてもわかりにくい。だが、その顔の表情の造形はとても大胆であり、意表をつくものがある。
それは人物の表情だけでなく、器の形そのものにも当てはまる。
岡本太郎が縄文土器に多大なインスピレーションを得、写真に撮影したことは知られている。その写真もとても造形的に私はすぐれたものだと思う。
私はこの縄文土器の躍動的な造形、人の表情、動物の顔の表情の激しく豊かな感情にも惹かれるが、一方で自然に対する静かな感情、諦念、観照、畏怖というような感情の方にもっと惹かれる。
縄文時代の人々の自然に対する感情はどんなものであったろうか。人の生活に今よりもっと直接的に影響を及ぼしてくる自然に対して、呪術的で、今よりもっと能動的に働きかける対象であり、思い入れが強かったことは充分に察することが出来る。しかし今よりもっとじっくりとした観察に基づいていたことも確かだ。自然に対する知識や知見は当然にも、現代よりも深かったろう。
その自然との交流は、激しいだけでなく静かにあらゆる不可解な自然現象を受け入れる側面が無いと人は生きていけなかったはずだ。わたしはこの側面にいつもこだわりながら、土器などの遺物に託された感情を読み解くことが必要ではないかと、思う。
それが学問的にどのような方法論となるのか、などということについてはとても理論など無いのだが‥。そんな私の思いを語ってくれる解説には出会ったことが無いのが、口惜しい。
さて、今回の解説では、チラシの2ページ目に縄文中期の4の人面装飾付深鉢形土器を取り上げて「一方は怒った顔で、眉をひそめてつり上がった目元、口は一文字につぐんでいま眉をひそめてつりあがった目元、口は一文字につぐんでいます。もう一方は笑った顔。目じりが垂れて口元が弓なりに上がり、微笑んでいます。またこの土器の一方の顔にだけ鼻の孔がつけられている。みる方向によってまったく異なる印象を与える」この土器のように、一対の紋様でありながら、あえて違う文様が描かれる例がしばしばあります」と解説にある。
また3ページ目の後期・晩期の説明に付随して、「対になる顔や人物装飾をもつ土器が複数見つかっている。意図的にその表情を変えているのがわかる。このような表情の違いを男女の描き沸けと考える意見もある。」
と記載している。
私はこの解説に異議を唱えるだけの力は持っていないけれど、でもオヤッ?と思った。
まず、この2ページ目、本当に片方は目が釣りあがっているのだろうか。怒った顔に見えるだろうか。もう一方の顔は、微笑んで見えるだろうか。口元が弓なりに上がっていることに異存は無いが、この口元は何かゆがんでいる。ひきつっている。また目じりが垂れていると言い切ってしまっていいのだろうか。私にはどうしても解説のとおりには見えない。実際も写真も解説のようには何度見ても見えない。
二つの顔の違いに着目するなら、違いの特徴はなんだろう。まず鼻の孔が付けられている、いないは顕著な違いだ。もうひとつ顕著な違いは、顔の輪郭線が同じく4重の点々の線であらわされているが、一方が広くゆとりある輪郭で、もう一方は顔が狭く、彫が深い顔に見える。そして鼻の孔のあるほうはハート型の額部分が大きく鼻まで食い込んでいるが、鼻の孔の無いほうは額が広い。二つの顔の違いを指摘するなら、この違いの方が顕著ではないだろうか。
私にはこの顔の違いは男女の差、あるいは社会的な地位の差のような気がする。社会的な身分差はなかったというのが縄文時代の特徴とよく言われるが、年齢による階梯、あるいは役割分担と言い換えてもいいが、その差ではなかろうか。また輪郭の差は、刺青の紋様の違いでは無いだろうか。刺青でなくとも身体装飾の差、あるいは仮面の存在が表されていないだろうか。
喜怒哀楽の差に絞り込んだ「コラム」は解説として納得できなかった。
3ページ目の解説で、人面の差として男女差を指摘している。これはそう思うが、やはり刺青ないし身体装飾、仮面による舞踊・祈りなどの表現としてとらえられないだろうか。
弥生時代の土器に描かれた人面はあきらかに刺青の紋様と断定していいのではないか。
しかし学問的な解説の当否よりも、私はおびただしい土器の、この不思議な造形に囲まれいる時間がとてもいとおしいと思う。この不思議な造形に囲まれていると、厳しい自然に囲まれて、じっとそれを観察して全身でそれを受容しようとする縄文人の自然に対する感情が私に乗り移ってくるようだ。
山に登って、誰一人出会うことなく、半分不安にさいなまれながら山道をひたすら歩くときのような感情が湧きあがってくる。決して気分が高揚してくるのではなく、静かに自然と交流しているような感覚でもある。ここはきっと激しい感情を読み取る他の方の感性とは違うものだと思う。

この「縄文人の祈りのカタチ」展が東洋館地下一階で行われていたのはチラシをもらったのに気付かなかった。これは迂闊だった。中高生向けの企画かもしれないが、我々でも充分にいろいろな体験が出来たかもしれない。9月下旬までなので、参加の機会があればいいのだが‥。
まずは「縄文土器に飾られた人物と動物」展から。




縄文土器の形状や土偶、人面などの造形にわたしはとても惹かれる。形も面白いし、どのように使われたか、何を盛ったか、何を祈ったか、など想像しても解けないことばかりである。それが魅力である。しかも、中期は中部や関東、後期は東北で数多く作られている。どちらかというと東日本・東北日本が縄文時代の中心地であったらしい。
縄文土器に描かれた人物の表情はなかなかユニークだ。どのような感情を表しているかはとてもわかりにくい。だが、その顔の表情の造形はとても大胆であり、意表をつくものがある。
それは人物の表情だけでなく、器の形そのものにも当てはまる。
岡本太郎が縄文土器に多大なインスピレーションを得、写真に撮影したことは知られている。その写真もとても造形的に私はすぐれたものだと思う。
私はこの縄文土器の躍動的な造形、人の表情、動物の顔の表情の激しく豊かな感情にも惹かれるが、一方で自然に対する静かな感情、諦念、観照、畏怖というような感情の方にもっと惹かれる。
縄文時代の人々の自然に対する感情はどんなものであったろうか。人の生活に今よりもっと直接的に影響を及ぼしてくる自然に対して、呪術的で、今よりもっと能動的に働きかける対象であり、思い入れが強かったことは充分に察することが出来る。しかし今よりもっとじっくりとした観察に基づいていたことも確かだ。自然に対する知識や知見は当然にも、現代よりも深かったろう。
その自然との交流は、激しいだけでなく静かにあらゆる不可解な自然現象を受け入れる側面が無いと人は生きていけなかったはずだ。わたしはこの側面にいつもこだわりながら、土器などの遺物に託された感情を読み解くことが必要ではないかと、思う。
それが学問的にどのような方法論となるのか、などということについてはとても理論など無いのだが‥。そんな私の思いを語ってくれる解説には出会ったことが無いのが、口惜しい。
さて、今回の解説では、チラシの2ページ目に縄文中期の4の人面装飾付深鉢形土器を取り上げて「一方は怒った顔で、眉をひそめてつり上がった目元、口は一文字につぐんでいま眉をひそめてつりあがった目元、口は一文字につぐんでいます。もう一方は笑った顔。目じりが垂れて口元が弓なりに上がり、微笑んでいます。またこの土器の一方の顔にだけ鼻の孔がつけられている。みる方向によってまったく異なる印象を与える」この土器のように、一対の紋様でありながら、あえて違う文様が描かれる例がしばしばあります」と解説にある。
また3ページ目の後期・晩期の説明に付随して、「対になる顔や人物装飾をもつ土器が複数見つかっている。意図的にその表情を変えているのがわかる。このような表情の違いを男女の描き沸けと考える意見もある。」
と記載している。
私はこの解説に異議を唱えるだけの力は持っていないけれど、でもオヤッ?と思った。
まず、この2ページ目、本当に片方は目が釣りあがっているのだろうか。怒った顔に見えるだろうか。もう一方の顔は、微笑んで見えるだろうか。口元が弓なりに上がっていることに異存は無いが、この口元は何かゆがんでいる。ひきつっている。また目じりが垂れていると言い切ってしまっていいのだろうか。私にはどうしても解説のとおりには見えない。実際も写真も解説のようには何度見ても見えない。
二つの顔の違いに着目するなら、違いの特徴はなんだろう。まず鼻の孔が付けられている、いないは顕著な違いだ。もうひとつ顕著な違いは、顔の輪郭線が同じく4重の点々の線であらわされているが、一方が広くゆとりある輪郭で、もう一方は顔が狭く、彫が深い顔に見える。そして鼻の孔のあるほうはハート型の額部分が大きく鼻まで食い込んでいるが、鼻の孔の無いほうは額が広い。二つの顔の違いを指摘するなら、この違いの方が顕著ではないだろうか。
私にはこの顔の違いは男女の差、あるいは社会的な地位の差のような気がする。社会的な身分差はなかったというのが縄文時代の特徴とよく言われるが、年齢による階梯、あるいは役割分担と言い換えてもいいが、その差ではなかろうか。また輪郭の差は、刺青の紋様の違いでは無いだろうか。刺青でなくとも身体装飾の差、あるいは仮面の存在が表されていないだろうか。
喜怒哀楽の差に絞り込んだ「コラム」は解説として納得できなかった。
3ページ目の解説で、人面の差として男女差を指摘している。これはそう思うが、やはり刺青ないし身体装飾、仮面による舞踊・祈りなどの表現としてとらえられないだろうか。
弥生時代の土器に描かれた人面はあきらかに刺青の紋様と断定していいのではないか。
しかし学問的な解説の当否よりも、私はおびただしい土器の、この不思議な造形に囲まれいる時間がとてもいとおしいと思う。この不思議な造形に囲まれていると、厳しい自然に囲まれて、じっとそれを観察して全身でそれを受容しようとする縄文人の自然に対する感情が私に乗り移ってくるようだ。
山に登って、誰一人出会うことなく、半分不安にさいなまれながら山道をひたすら歩くときのような感情が湧きあがってくる。決して気分が高揚してくるのではなく、静かに自然と交流しているような感覚でもある。ここはきっと激しい感情を読み取る他の方の感性とは違うものだと思う。


この「縄文人の祈りのカタチ」展が東洋館地下一階で行われていたのはチラシをもらったのに気付かなかった。これは迂闊だった。中高生向けの企画かもしれないが、我々でも充分にいろいろな体験が出来たかもしれない。9月下旬までなので、参加の機会があればいいのだが‥。