Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

暑さ復活

2013年08月07日 20時37分46秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 突如としてという感じで、天候が暑くシフトしたまま安定した。可能であれば本日朝一番からでも白馬岳に行きたかった。2泊3日とすると、土曜に予定があるので残念ながら明日からではいけない。この分では、日曜の朝の出発になってしまうが、天候はそれまでこのままもつであろうか。
 一瞬の気の迷いが出発を大きく遅らせてしまった。山に行くというのはこのように結構一瞬の判断が一週間・二週間の出発の差を生んでしまう。退職して比較的時間のゆとりがある私でも、この一瞬を逃すと次までこのように時間が空いてしまう。まして現職の頃などはその一瞬の差が1ヵ月・2ヵ月の差となって跳ね返ってしまう。イラッとしてついつい人に当たってしまうことがよくあった。延期したその日になってみると天候が悪くて結局山に行くことそのものを断念せざるを得なかったという次第に幾度なったことか。
 得てしてこのような時は、山にいけない憂さを、きつめのジョギングで解消しようとして足を痛めることになっている。泣きっ面に蜂とはこのようなことを指している。

 ということで本日は、気を静めてとおもう気持ちと、いらいらが押えられない不快感とが交互にやってきている。ついキーボードに八つ当たりをしてしまう。
 といっても山に行く段取りを考えようとしたのが昨日の夕刻過ぎなので、もともと無理なのである。いらいらが昂じているとそんなことすらも忘れて、ひたすら出発できなかったことを悔いることになる。そうなると自分の気持ちを律することが出来なくなって危険だ。おおらかな気分にならないのだ。

 その上に、いつも使っているハガキのソフトで初めての試みとして往復ハガキを打ち出そうとしたがうまくいかない。イライラが増幅して大分危険な状態になっていた。

 そんないらいらした私の気分を知ってか知らずか(間違いなく知っていて)妻が、横浜駅に買い物に出かけようと誘ってくれた。気分転換ということで、この暑い中、15時過ぎから18時近くまで往復約1万歩をゆっくりだが歩いた。
 往復歩いているうちに、そしてスーパーでの買い物に付き合ううちに、いつの間にか気分も落ち着いた。これで妻にはまた頭があがらなくなる。

「水へのいのり」展

2013年08月07日 14時50分25秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
   

 昨日横浜歴史博物館で「水へのいのり-古代東国の川辺と井戸のまつり-」展を見てきた。
 水というのを私が自覚したのが、4歳くらいのときであったと思う。それは井戸というものを介してである。当時2軒長屋の社宅に住むようになったのだが、共同の庭の真中に古い使われなくなった井戸があった。いつも板で蓋をしていた。その井戸を使ったことはない。ポンプが赤く錆びていたし、柄を動かしても水は出てこなかった。丸い井戸枠を何枚のかの板で蓋をしていたのだが、その蓋の隙間からよく中をおそるおそる覗いた。井戸の蓋のある高さまでは届かない身長なので、何かの石の上に乗り、無理に背伸びをした格好だったと思う。
 何も見えないのがかえって怖ろしくてすぐに目をそむけるのだが、それでも覗きたかった。あるとき、蓋を少しずらしていつものように覗いてみたが、たまたま覗く側だけでなく、反対側も少しずれて外の明るい日差しが反対側から井戸の底に差し込んだ。微かに底の方がきらきら輝いた。とっさにそれが井戸の底であり、そこには水がたたえられているのだと直感した。同時に「水」というものが何か得体の知れない不思議なものに思えた。
 当時はすでに社宅には水道が引かれ、冬場になるとすぐに氷ってしまいよく破裂したようだが、それでもその井戸水を使うことはなかった。そして水道の水と、得たいの知れない畏怖の感情に近い目で眺めた井戸の水が、同じ水であるとは認識しつつも、別々のものと認識していたと思う。同じ水なのに、という感覚ではなく、両者が結びついて頭の中で「水」として同じものだという認識はしていなかったと思う。
 両親からは危ないから井戸に近づくな、蓋を覗くなと言われていたのは記憶している。それでも両親はその使わない井戸を潰すとか、蓋をきちんとするという意見は何も口にしなかった。できれば話題にしたくない、避けていたい対象だったように私には伝わった。
 二十歳のころの仙台の学生時代、友人の借りた家にあった使われていない古い井戸を見て、きっと古い井戸というものはそういうものなのであろう。普段使っている井戸にはとくにそのような感情が湧くことはなくとも、使われなくなってしまった井戸に対しては近寄らずにそのままにしておく、何かタブーのようなものに接する心性が働くのであろうか、とふと思い出した。
 就職して道路管理の仕事をしていたのだが、あるときもう使われていなかった古い道路敷きの傍の民地に利用計画があり、その古い道路敷きにアスファルトを敷いて人が歩けるようにしようということになった。しかしそのすぐ脇に古い井戸のあと、痕跡が見つかった。舗装工事のついでにサービスでそのあとも埋めてしまおうということを地権者に伝えたが、地元ではそれではダメだと頑なに拒否をした。後日近くの神社の神主を呼んでオマツリをしてからでないと埋めてはいけないものだといわれた。とても硬い決意であったことをよく覚えている。何週間かが過ぎて、無事そのお祀りが済んでから工事を終了したことを覚えている。
 そのとき、小さいときの長屋にあった古い井戸のことを思い出した。井戸や水に対する畏れ、祈りというのが30年前ですら生き延びていたのだ。
 しかしながら今では、広い土地を開発したり建売で家をたてるときも、都会の中の小さな沢の源流点は容赦なく潰され、水路敷きも払い下げを受けて民地に組み込んでしまう。きっとあった祠も、井戸の跡も忘れられ、小さな高低差も平地にならされ、その痕跡はどんどんなくなっていく。
 しかし人里に近い源流点では水神社があり、きれいに掃除がされているところが多い。田んぼが荒れ、稲が植えられていない谷奥でも水源は大切にされている。しかし人がその地を離れると、また高齢化が進めばそのオマツリも絶えてしまう。苔むした社が朽ちてなくなれば、人も田も、水を大切に祀った湧き出し口も、人が住んだ痕跡すらもすべてが消えてなくなる。
 登山に行くと、人里を大分離れた場所でも水神社があり、岩の間や樹の根の下からこぼれる雫を祀っているところに行き着く。とくに信仰の山として人が昔から入っていた山では、水場として大切にされてきた証となっている。そのような場所で汗を拭い、喉を潤し、一服し、服装を整えて、ゴミを片付けるのが習わしであると先輩から厳しく教わった。水場はけっして汚してはならないのが、その山に対する敬意の表し方でもある。同時にそれは労働の際の大切な水分補給と休憩のための戒めでもあった。

 今回の「水へのいのり」展、王権としての水まつり、河川交通の地点での水まつり、湧水地点での生活用水、農業用水としての水まつりという3つの場面の遺跡の水まつりを展示している。
 残念ながら私には規模の大小を除けばその違いが遺物からは判読できないのだが、研究者からみれば違いが判るのであろう。
 私の興味を惹いたのは、いづれも中国の土俗的な色彩の強そうな信仰の形に近いのかな、という点だ。これは直感だからどの遺物の関連してそう思ったのかと問われると心もとないのだが、人形、船の模造品などの方代の存在に触発されたようだ。関連のイベントでも「東アジアにおける洪水伝説の成立と展開-水に対する心性をめぐって-」と題された講演がある。この講演など是非聞いてみたいと思い、応募してみた。
 律令下、さまざまな地域の信仰のよりどころが延喜式などの国家による秩序立てに組み込まれるに際して、水をめぐる畏れと祈りがどのように処理をされてきたのか、なかなか面白い視点だと思う。
 幾重もの波のようにやってくる新しい農業のあり方や技術の伝播にともなってさまざまに変化してきたのであろう。農業と一体の「水のまつり」「水へのいのり」の変遷や違いは、農業の伝播の歴史の反映を読み解くことなのであろう。