この絵は、リュシアン・シモンという画家の「突風」(1902-03頃)。私は名前を始めて目にする画家だ。しかし絵は何か既知のような気もするのだが、はっきりしない。他の誰かの絵と勘違いしているかもしれない。
昨日取り上げたコローの「突風」と題が同じなのでちょっと足を止めたのだが、とても気に入った。コローの絵は一人の女性と思われる人物が木を大きく揺らす強い風に翻弄されながら進んでいる図だが、画面の主題はその風と風を受ける海岸線に近い森の情景である。人間は荒れる天候の中で孤独である。
しかしこの絵も海岸に近い荒れる天候の中の様子だが、コローの絵とは違って森がない。コローにとっては自然の象徴であった森や木々がこの絵ではまったくない。森というある意味人間に癒しやめぐみを与えたりする面もある自然は描かれていない。荒涼とした地形の中を2人の赤子を抱いた7人の行進する男女が主題だ。この行進はこの地方特有のキリスト教儀式らしい。
約40年隔たって、主題はすっかり人間になった。画家はブルターニュ地方の風土と風俗にこだわって描き続けたとのこと。儀式の主題は不明だが、コローのように自然の中の一要素としての人間ではない。またミレーの描く豊かな恵みももたらす自然でもない。荒涼とした風景の中で、思いを遂げようとする意志が強く出ている絵だと思う。
近世から近代にかわるということは、このように40年という時間で、自然と人間の関わりが、あるいはその関わりを見つめる人間の目がこんなにも変化するのかという思いが湧いてきた。
私はたまたま大学時代の友人と40年ぶりの同窓会を開いたが、40年という時間は、とても長い時間だ。しかしこんなにもものの見方、自然と人間の関係の把握の仕方が大きく変わっただろうか。変わったこともあるが、変わらなかったこともある。自然と人間の関係を含めて、時代の変化を客観的に把握することは出来るのだろうか。それはとても困難なことに思える。
そしてこの雲と空の色が私には気に入った。この荒々しい筆遣いはフォーヴィズムのさきがけといわれるという。
時代の先駆けというものも、自覚的にできたらそれは大変なことである。先駆けというのは無自覚だからこそ、意味があるものなのだろう。
これはセザンヌの「パイプをくわえた男」(1893-96頃)。セザンヌは私にはとても不思議な画家だ。
美しいという概念がちょっと私とは違うな、と思いつつ忘れられない絵なのだ。もっとも近・現代の多くの画家の「美」の意識が私とはずいぶんと違うんだなといつも思うのだが、違いが先に目につくのが近・現代なのかもしれない。それが画家の個性というものになってくる。それ以前の絵は、逆に「これが美なんだよ」と教えてくれるもの、という印象がある。
さて、セザンヌには3点の「パイプをくわえた男」があるという。このプーシキン美術館の絵は後発の1枚。他の2点はいづれも1891年に描かれ、2点並んだ上がマンハイム美術館のもので最初、下はエルミタージュ美術館のもので2番目の作品。プーシキン美術館のものが2年後の作品。
顔の表情は小さくて読み取れないが、解説によると次第に抽象化されてきている。確かに目がはっきりして意志の強さを感じる最初の絵に比べ、3作目は目全体が黒く塗られて表情は読み取れない。
ポーズは左に傾いでいても安定感のある最初の作品から、2作目は直立して安定感が高まったが、3作目は左に大きく傾ぎ体全体が細く引伸ばされている。椅子が表現されているのが3作目だが、座り方は不自然で今にも滑り落ちそうである。自然な座り方からは程遠い。
テーブルも実景に近い最初の作品から、テーブルであるとは思えない物体にかわり、3作目ではいびつな形のテーブルになり、腕の曲がりが不自然になり、顔に較べてこぶしが大きくなり、上腕が太く描かれている。
背景は何も無い壁からカーテンのようなものに替わり、3作目は「夫人」の肖像がやはり斜めに貼り付けてある。
解説では「画家はより不安定な構図にむかって進んでいったかに思えてくる。ルネサンス以来の安定した空間表現に依存せず、何よりもまず描くべき「もの」があり、その存在によって最も望ましいと思える空間をみずから構築していく-そんな画家の感覚こそ、立体をあらゆる角度からとらえ、それをひとつの絵画平面にまとめようとしたキュビズム視覚を準備するものだった」と記載されている。
不安定も意に介さず、人間の肉体のバランスもあえてくずしているというのはそのとおりだと思うがそれをしてまでも「何よりもまず描くべき「もの」」とは何か、と問われると回答ができない。少なくとも私にはわからない。
この絵でいえば画家の「何よりも」描きたかったものとは何であったろうか。これはいろいろと考えさせられる絵である。
私はいつもセザンヌの絵の前で、おなじ疑問にぶつかる。それでも不思議と心に残りまた、見たくなる絵である。
このピカソの「マジョルカ島の女」(1905)。私の昔から好きな絵である。いわゆる「青の時代」の最後の作品につらなるものということになっている。
不思議な帽子とショールで、本当にこんな衣装があるのか?となるが、実際のものらしい。
絵は青と茶のグラデーションが大半を占め、頭の黒と背後の紫だけが妙に目立つ。
水彩画なのだが、油彩画かと思っていた。実物をみてもその区別がつかなかった。これは私の目が情けない所為なのかもしれない。
物憂げでちょっと弱々しい表情と体格・仕種が、明るい青の色彩とアンバランスに見える。日の当たった白い顔がそのアンバランスをつなぎとめて調和させている。
肖像画が、今の写真の役割から解放されて、画家の人物表現は画家の人間に対するイメージを色濃く映し出すものにかわってきた。画家の持つ人間像が、人間理解が色濃く反映するのが肖像画ということになったと思う。あるいは端的にいって、これは画家の当時の理想の女性像なのだろう。あるいは画家にとっての聖母像になるのかもしれない。聖母像に画家が美しいと感じたどこかのモデルとすべき女性を描くのではなく、あくまでも自分のイメージで描くのが近代の肖像画なのだとおもう。
具体的な理想とする人物像や、具体的な肉体表現から解放されて、画家のイメージが選考する肖像画、そんなことが正しい言い方かどうかは、素人の私にわからないが、そんなことをこの絵を見ながら感じた。