Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

いやな思い出

2013年09月22日 23時59分57秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日災害時の私の職場の体験をながながと綴ってみた。いい思いでの部分を綴ったのだが、本当はいやな体験こそが大切なのだと思っている。もう30年以上も前の話であるから、時効でもあろう。この当時のいやな思い出は既に現在の職場では改善されていて、その様なことは皆無だと信じている。少なくとも昨年3月に私が退職する頃にはそのような訴えは私のところには来ていない。

 当時まだ30歳を過ぎたばかりの頃、若かったこともあり、組合の末端の執行委員に名を連ねていても管理職はそれほど私のことは重視をしていなかったのかもしれない。逆に生意気な若造、それも組合の主流からは排除されそうな影響力の少ない職員として、わざと否定的にあしらわれていたのかもしれない。
 やはり台風が来たとき、たまたま道路の監察の順番になり、区内の道路を運転手と共にパトロールに出かけた。途中から強烈な風に見舞われ、道路に面した工事中の建物の足場が風に煽られ倒壊し、広い歩道上をすべて塞いで、延長15メートル以上倒れているのを見つけた。看板を見て、工事会社に連絡を入れるように職場に無線連絡を入れた。しかし東京の会社でとても現場対応などできないというトンでもない対応をされたらしい。
 しかしそんなことをいっても、極めて危険である。シートは風で煽られ飛んでいきそうであり、そうなれば走行中の車も事故を起こしかねない。付近の住宅にも被害が出る。まして人がまったく通れない。付近の住民も心配そうに見守っている。
 緊急避難として道路の通行を至急確保すべきであるとして、作業班の派遣を所属の同僚に無線で連絡した。ところが1時間たっても誰も来ないし、何の連絡もない。
 二回目の催促の無線を入れたところ、やや経ってから直接の上司が無線に出た。そして現場の状況をもう一度説明させられた。どうもその係長は他の現場に出ていて初めて話を聞くらしい。説明を終ったあと「もうしばらくそこで待機しろ」という。さすがに私は声を荒げて、「どうして一時間も対応が無いのか」と聞いたが、無線にはもうだれも出ない。地元の住民からはいろいろ聞かれるが、言葉を濁すしかない。
 さらに30分たってようやく作業班と無線に出た係長が来た。係長は作業班に片付けの指示をした後、私から業者の連絡先等を再度聞きだし、自分から公衆電話でその業者に電話をして、「今日こられないなら、始末書持参で明日一番で事務所と警察に経過報告に来い」と怒鳴っている。
 これが最低限の係長の対応であるが、どうも私にはぎくしゃくとして面と向って話をしない。不思議に思って作業をしている同僚の作業班に聞いたが要領を得ない。
 1時間ほどして緊急の片づけを行い、地元住民に作業の遅れたことを私が謝りに回り、業者指導を徹底することを伝えて、職場に戻った。
 職場に戻って同僚にいろいろ聞くてまわって、ようやく事態を飲み込むことができた。
 私が現場を発見して緊急で無線を入れた時、副所長が待ったをかけたという。台風が収まるまで冠水やがけ崩れが起きたらそちらを優先しなくてはいけないから、作業班を出すわけにはいかない。作業班は引続き事務所で待機」という指示だけを出したらしい。同僚が「では現場にいるパトカーは?」と聞いてもだんまりを続けたという。
 一時間後に係長が戻ってきて、私の無線を取り、副所長にもう一度話をしたが同じことを副所長が主張したとのこと。係長は私を現場にそのまま待機させるわけには行かないと判断し(当然である)、副所長には無断で作業班と共に現場に来たということがわかった。係長も副所長の対応に憮然としているようだった。
 私はさすがに怒った。副所長の机を叩いて、「緊急事態だということがどうして理解できないのか、しかも部下を現場にそのまま放置するとは何事か、部下を台風と地元の人の不安の中に放置するのが管理職の仕事なのか、道路法上も緊急対応は違法ではないないのではないか、違法であってもこの事態に対応しないことのほうが問題である」と何度も同じことを怒鳴った。しかし無言であった。
 15分ほど、怒鳴り続けたが何もいわない。所長まで黙って遠くの所長室の前で見ているだけである。副所長の机を蹴飛ばしかねない勢いで「ふざけるな」と私がどなったとろで係長が私のところに寄ってきた。肩を抱いて「もう止せ」と宥めてきた。とりあえずそこで私は一端は引き下がった。

 退庁時間までに台風は峠を越え、さいわいに他に被害も軽微なものだけで済んだ。そのまま仕事は終了となり私は怒ったまま誰とも口をきかずに家に帰った。しかし怒りはおさまらない。翌朝、再度副所長にどういうことなのか、メモに問題点を整理して問いただそうとしたが、所長も副所長も2日間休暇をとって休んでいる。他の係長は台風の後始末で大忙しである。
 机をたたいて怒鳴ったことはその後もまったく問題にもなっていない。しかし私もこんなに怒るとは、今から思うと血の気が多かったと思う。あの若さが今となっては懐かしい。
 そのときの係長は、私をなだめるだけで、それ以上のことはしなかった。しかしあとで聞いた話では、係長会で随分とこの副所長の批判というか愚痴を繰り返していたらしい。私への批判は口にはしなかったとのことである。

 組合の執行委員会の時、この事態を報告した。しかし執行委員会の主流派(今はいわゆる全労連派として純化している)はこのことに乗り気でない。私は「作業班をまずキチンと災害時に位置づけるようにしなければ作業班の存在が否定されかねない。また現場に職員を置き去りにするような管理職をキチンと指導するよう当局に要求しないと、職員は安心して働くことはできないし、責任が末端職員に背負わされる」と主張したが話がかみ合わないまま終始した。どうも私が提起しているからそれが気に入らないらしく、最初から否定的なのである。党派的思考のいやらしさをいやというほど味わった。
 私の提起をまともに聞いてくれたのは、作業班出身の執行委員の一人と私と共に主流派ではない2人の仲間だけであった。問題意識は共通であることを確認し、以降このことを中心に仲間を増やしながらさまざまな運動を繰り広げてきた。
 私は、このような課題は労働組合の重要な課題であると認識した。私たちが別の労働組合として自立したとき、この問題に共通の問題意識を持ってくれていた仲間が新しい組合に参加してくれたことはうれしかった。

 先に私が机をたたいて怒った副所長については、当局との直近の交渉の終了後に「こんな非常識な管理職をどうにかしろ」と捨て台詞を吐いて会場を後にした程度で、後はこのことを話の話題にしながら職場の仲間集めに利用させてもらった。ただし翌4月には異動でいなくなった。それは私の怒りを当局が認めたのかどうかはわからない。副所長に何もいえない情けない所長とはさらに1年付き合わざるを得なかったのは残念であった。

 災害対策については、労働組合再建後私たちの組合の最も重要な要求の柱に災害対策の充実を掲げてきた。作業班の位置づけについては従前の組合でやっとのことで要求の柱にしてきたが、再建後それを軸に要求を私たちの言葉で再度体系化することができた。
 当局側も時代の流れに沿って当局なりに災害対応を重要視するようになった。組合に「なさけない災害対応」と宣伝されるのも嫌であったろうし、当時の高秀市長の方針でもあった。これは阪神淡路の震災支援で横浜市の対応が早く的確であったとの評判につながったといわれる。この時も組合員が行政支援、労働組合としての支援のいつも最先頭に立っていた。これは組合を再建したときの、少数派組合であったが、支部立ち上げの先頭に立った私たちの誇りでもある。高秀元市長の評価はいろいろあるが、災害時でも常に市政の最先頭に立とうとしていたことは評価できるのではないか。

 橋下大阪市長のツイッター事件で思い出したこのいやな事件。大阪市長の対応を聞いて、このひどい副所長と情けない所長とを真っ先に思い出した。橋下という男、何事かが起きれば、真っ先に部下の所為にして自分は責任を取らずに逃げる人格と思える。責任を取りたくないから災害対策本部に身を置かないとしか思えない。あるいは現場に行って役に立たないことを知っているから、その勉強をしようとしないから現場に行かないのである。
 災害時には部所ごとに責任者が的確な判断をしない限り、被害や事件の速やかな対応はなかなかできないものであることを教えてくれた。担当者だけの判断ではいけない。管理職が的確に情報を判断して組織として対応することが常に求められる。上層部になればなるほど応用力とより幅広い視点からの判断が現場で求められる。市長は最終的な判断者だから、そう常に判断を求められる場面は少ないが、それでもいつそれを求められるかわからないのである。
 本当は災害対策本部に身を置き続けることで、副市長以下の動きから自分の動きや判断を身につけなければならないはずである。何事も現場に身を置いて自分の存在感を示さなければ、それこそ「役人」の言いなりにならざるを得ないのである。「官僚批判」をする前に、官僚にまけない判断力を政治家は身につけてもらわないと困る。それは災害時だけではない。自治体は金融市場の動向にも敏感に財政運用をしなくてはいけない時代だ。そのような場面も含めて自治体の首長は、自治体の行政の最前線に常に立っていなくてはならないのではないか。

最後の出発準備

2013年09月22日 12時12分26秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日から30日までイタリアへ旅行予定。妻とそれぞれに荷物をバックに詰めたり、出したりを繰り返している。
 私の場合、繰り返して詰めなおすのは入れたはずのものを、どこに入れたか頭に入っていないので幾度も確認のため、リュックからものを出し入れする。山の支度ならばいつもの場所にいつものものを入れるので、チェックリストも頭に入っているし、そんなにあわただしく幾度も確認しなくてもいい。
 だが、この種の旅行は慣れていない。幾度も出し入れをしているうちにどこに何を入れたか少しずつ頭の中と実際のリュックの中が一致してくる。しかも山用のリュックではないので、ポケットがビジネスバックのようにたくさんついていて、どこにしまったか忘れ易い。使い慣れれば楽なのであろうが‥。
 旅の楽しみは荷物の準備に醍醐味がある、と教わったことがある。汗をかきながらの荷物の入れ替え、私はもう疲れてしまった。

 昨夜、災害対策に携わった私のささやかな体験を記したが、もうひとつ私の関わった事例を思い出した。夜に追加で書いてみようと思う。