広い会場に、大きな作品が並びなかなか圧巻である。
菊地武彦「土の記憶」のシリーズ、中野浩樹「奏」、川邉耕一「Floating」のシリーズ、
そして井上雅之「透過考」のシリーズのそれぞれの大作、いづれも見ごたえ充分である。
井上雅之の「透過考」については前回の個展の時に見た作品とのつながりを反芻してみた。「68・2013」(右)と「65・2013」(左)の作品の違い、楕円の質感の違いが何を表しているのか、いろいろ想像してみた。
「68・2013」が線の重なりでボリュームを出していると感じたが、「65・2013」は色の量感と黄色の線でボリュームを出していると感じた。このボリューム感の違いが、新鮮に映り、この二つの絵の魅力でもあると思った。
楕円にこのボリュームかを与えることで、楕円の内側を光やら磁力やら重力が波動として、レンズを通り抜けるように下から上に通り抜ける瞬間を思い出すこともできる。遠い宇宙の果ての未知の星や星雲を見るような思いもした。
水面にできた円の紋様を光が透過する際には、あるいは人間の意識がこのように身体を通り抜ける際には、どのような作用を受けるのだろうか。そしてそのレンズのような質感の違いでその作用が、さまざまに変容することも連想できないだろうか。
さらに、私の好きな琳派のデザイン化された水の表現なども思い浮かべることもできた。これはさらに飛躍しすぎかもしれない。
そんな飛躍しすぎるような感想も得て、とても楽しく、楽しむことができた。
「土の記憶」シリーズ、垂直の太い黒い線と線の間のあわい空間、丸い泡の形の繰り返しをいれた空間に惹かれた。
土という表現にひきづられてしまうけれど、何かとても懐かしい柔らかいもの、水たまりの泥の感触などを連想した。
いろいろな過去の想念が柔らかい何者かに閉じ込められて、時々意識の表面に顔を出す瞬間の不思議な懐かしい感触も湧いた。
「奏」の諸作品、色の氾濫のようなあの明るさは、私の意識からは遠い存在だが、どこかでそれを羨んでいる自分を見つけた。
実は、ブリヂストン美術館でいつも見る、ザオ・ウーキーの「07.06.85」を思い出した。
いづれの作品からも、水や森の緑の氾濫を連想する。水や木々がこんなに色をたくさん含んでいることにびっくりした。
「Floating」のシリーズ、楕円の黒と、吹き出るような直線の組み合わせが不思議な感触である。大地や火山から溶岩やガスなどが吹き出るように、身体から何かを噴出し続けるような表現意識の前に逡巡してしまっている若い頃の自分を思い出した。遠い昔の自分を想像してみた。とても若い時代のエネルギーを大切にして、それに依拠して何かを常に模索しているようなこだわりを感じた。このようなこだわりというのを感じるのはとても心地よい。
なかなかうまく表現できないのだが、並んでいる作品を見ていると不思議な想念がどんどん湧いてくる。そしてそれが自由に自分からはなれて、遠くに飛翔していくのを下から眺めているような気分になる。そんな自由を感じた。
もっと早くに見に行って、こんな自由な空気を紹介すればよかったと反省している。でも頓珍漢な感想で、作者たちは迷惑しているかもしれないが、そのことはどうかお許しください。