Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

基本的なことがわかっていない市長

2013年09月21日 23時28分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 大阪の橋下市長が、話題になっている。あの台風18号で被害が出ているときの状況について以下のように報道されている。

橋下市長がツイートを開始したのは16日9時半すぎ。大阪市と堺市の境界を流れる大和川流域の水位が上がり避難勧告が出される中、それを告知した上で「市長が個人的にツイッターで知らせるものではありません。これは市役所として組織対応していきます」と宣言した。大和川の状況が落ち着くまで自宅待機で役所と連絡をとるといい、その間に堺市長選挙(15日告示、29日投開票)についてツイートしはじめた。
   「状況が落ち着いてから、堺市長選挙のために堺市内に入ります。ゆえにツイッ  ターで、堺市長選挙について述べます。久しぶりのツイッターだな~。以前の感覚、  忘れちゃった。徐々に取り戻します」
 ツイートは現職の竹山修身堺市長の批判からはじまり、堺市を巻き取った大阪都構想へ。ところが、台風の大阪での勢力がもっとも強いタイミングだったため、「この感覚に驚き」「いいかげんにしろ!状況考えろよ!」などと市民からは怒りのツイートが相次いだ。市長選で維新側の候補と「一騎打ち」する形になる竹山市長がさっそく氾濫した河川の視察に出ていたことがツイッターで伝えられたことなどもあって、「うち(大阪)の市長ときたら」と呆れ返る声も出た。
 こうした批判に対し、橋下市長は「同時に複数の仕事ができるくらいでないと市長などできません。危機管理はちゃんとやっています」と反論。その上で、竹山市長の視察についても持論を展開した。
   「今回は大きな被害が出ていない。大和川の堤防の状況を見るには、専門的な知  識が必要。ゆえにまずは土木担当の副市長が視察に行き、必要な現場指揮をしなが  ら、現場の状況や、問題点、そして判断を求める事項等を市長に報告。これが組織  マネジメント。今、市長が堤防を見るのは何の目的??」「必要性の乏しいトップ  現場視察は現場を混乱させるだけ」

 このような報道を読んで、この報道の内容が正しい内容であるとした上で、私の感想を述べてみる。
 「複数の仕事ができるくらいてないと市長などできません」「危機管理はちゃんとしている」「堤防の状況は専門的知識が必要」「市長が堤防を見るのは何の目的?」というのが、市長の発言・判断として書かれている。
 橋下市長は、市の災害対策本部長の仕事について基本的な理解ができていないと判断できる。災害対策本部長である市長は、ハードからソフトまですべての総責任者である。まず、災害対策本部長とは何かをキチンと市長は把握をしていないことになる。大阪市議会では、それをキチンと解明してもらいたいものである。
 災害時、それぞれの担当部局の長が責任者となって具体的な対策をたてるわけだから、大都市ともなれば「頓珍漢な市長」がいても一定の対応が取れるだけの組織とはなっている。しかし市民の生命と財産を守る責任者として常に第一線で「おれが責任を取るから思う存分今までの組織力を発揮して欲しい」というのがトップの行動の仕方である。後方から指示をして他のことをしているということのいいわけにはどうしてもならない。
 中心部を流れて氾濫しそうになり、30万人という大阪の人口の一割に避難勧告が出ている状況というのは、トップクラスの災害である。そこに全力投球しない市長=災害対策本部長というのは誰が考えてもあり得ない。
 また堤防が決壊ないし溢れるということは、災害対策上は河川管理者としてのハードの判断の他に、ソフト面での避難対策が必要であり、全部局を挙げた対応が必要になる。おそらく河川管理者は大阪市ではなく、府であると思われるが、そことの密でスムーズな連絡が必要であり、一瞬の齟齬が被害を拡大することもある。そんな大事な場面に市長が、家に籠もっているのは職務放棄に等しい。河川管理者との調整をするのに、また市の各部局間の調整が必要な時にトップが不在で済むならもともと市長など必要ない話である。
 トップが率先しないでも何万人もの職員がスムーズに動く。それは大阪の職員が全体として優秀だからということであり、日ごろの市長の職員批判とは相容れない。都合のいいところだけ持ち上げて、都合が悪いと職員の所為にする。なんともひどい話である。それでもあの災害対策が効を奏したのは、市長の力量よりはるかにすぐれた市の職員と市民の対応が的確であったことを素直に認めるべきであろう。
 市長が海外出張などの時は、わざわざその期間は「市長職務代理者」を規定に従って決める。それは市長不在のとき「市長に代わって市民の生命財産をまもるために」第一線で働く人間が必要だからである。海外出張でもないときに、大きな災害が身近に迫っているのに災害対策本部長が職務につかないのならば、当然「職務代理者」を決めなければならない。それは市長が職務を放棄したか、心身に差し障りがあるときしか想定できない。
 もう一つ大事なことは、市の職員だけで災害対応ができるというのではないことがわかっていないということだ。河川の管理者は府あるいは国である。災害対応には消防だけでなく府の職員である警察官も第一線にたつ。学校が避難所なら府の職員である教員も対応する。自分の部下である市の職員だけが対応するのではない。当然仕事を請け負う建設会社の経営者もその下で働く社員もいる。彼らも河川の氾濫という場合、満足な休息もなかなか取れない中で、生命の危険にさらされるような第一線で働いている。
 しかも多くの消防団員や町内会の役員、ボランティアや意欲的に体を動かしてくれる多くの市民が動かなければ災害対策は実効あるものにならない。30万人という一割の市民に避難勧告が出ていて、さらに実際に氾濫したら、大混乱になる。
 昔私が現役のとき、大雪で交差点が雪で埋ったとき、付近の造園会社は全員で重機を出して雪を排除するのに一晩無償で奮闘してくれた。ある大雨で交差点が冠水したときは、町内会の役員のほか地元の有志が総出で交通整理の旗振りを買って出てくれた。
 市長がツイッターにうつつを抜かしている時、多くの市民がそのような場面に出くわし、第一線で奮闘していたはずである。お互いに身を守るために力を出し合うのである。
 しかし行政の長であり、災害対策本部長としての市長が後ろにいて力を出さないのは、政治家としての責任を果したことにはならない。
 土木の知識に関して素人としても、そこで働く人間の意欲を考えれば、堺市長が第一線に視察に行くというのは極めて大切なことでもある。現場の人間の働き甲斐にもつながる。現場の人間にとって見れば、自分のこなしている仕事が極めて意義のある業務であるとの認識をトップも判断しているから視察に来たのだ、というのは大切なことである。その意欲を引き出すことが、より対策をスムーズにする。またはそのように導くためにトップないしそれに類する人の視察は古今東西つねに行われてきた。それがトップマネジメントの基本である。
 現場の邪魔をしに来た、というようなことがいわれるとしたら、それこそ組織の体をなしていない証左である。普段から災害対策の訓練すらまともにできていないに等しい。現場の手順に影響の出ない視察ができなくて何が災害対策なのであろうか。

 大阪市では民間公募校長の不祥事が相次いでいるが、逆にこれは教育に素人の市長と公募校長が教育現場を如何に混乱させたかを物語っている。「土木に素人」と他の自治体の市長を批判する人間が、素人として教育行政を混乱させている。
 いづれもこの橋下という男、これまでの言動から判断する限り、基本的に人間としてのマナーや資質、組織を切り盛りする資質、人の上に立つ資質が欠けていると思われる。
 また大阪都構想、どう考えても今の大阪市という自治体の権限の多くが大阪府に吸い上げられてしまい、大阪市としての一体的な行政が不能になるということにどう対応するのであろうか。具体的な課題がまったくないがしろにされている。
 これまでの地方自治の権限の拡大の方向とはまったく違ったものになる。現在の東京都と特別区の問題点の検証、政令指定都市としてのこれまでの流れの検証と問題点の把握、そしてあるべき姿の模索というプロセスがまったく無い。

 昔、飛鳥田一雄横浜市長は赤字を抱える市電を廃止するために、職員に対しては市電の営業所ひとつひとつを回って職員に話しかけ、理解を求めた。また当然にも町内会などの小さな組織に飛び込んで、やはり理解を求めて歩いたと何回も聞かされた。
 地元でも、そして職員の間でもずっと語り継がれている。

 人というのはこのような人についていくのである。そして語り継がれるものである。

 先ほど、交差点での地元の方の協力の話を書いたが、もう25年も昔の話なので記憶している範囲で書いてみる。当時やはり台風で、私の所属で管理する幹線道路から高速道路に入る交差点が冠水したという連絡が入った。私が同僚と現場を見に行ったが、車が列をなして渋滞してしまい現場に行くこともできず、地元の方の庭に車を止めさせてもらって5分ほど大雨と強風の中を走って交差点に行った。そこでは何台かの車が水に浸かって、地元の方が何人も出て車を押している。
 あわてて所属の作業班1班に来てもらうよう無線で依頼し、所属でも副所長を先頭に警察・消防・区そして高速道路の管理事務所に連絡をとってもらった。さらに事務・技術職も幾人か現場に来てもらった。車は渋滞で近づけないので地元の家の庭を無償で借りた。
 ようやく高速道路の敷地の排水がつまっているらしいとわかった。しかし高速道路の管理者は、人出がないし、業者も対応できないとの回答しか示さないとの情報がもたらされた。現場の私たちは一時途方にくれた。地元は私たちを頼りにするしかできない。しかも如何せん我々はその排水施設の管理者ではないので図面も無く、どこに排水施設があるかも分からない。
 所属の承認を求めたところ、地元を無視することはできなので、排水施設の泥詰まりを何とかしようという判断を得た。所属では区にも報告したようだ。作業班も私も腰まで浸かりながら、暗い中危険と隣合わせだったが、手探りで排水施設を探し、泥を掻き出し水を通した。吸い込まれる水に体をさらわれないように、ロープに体を縛っての作業であった。
 その上、その間深夜の11時を過ぎから約4時間、地元では作業車の駐車スペースを提供してくれたし、警察・消防が旗振りに人出を割かなくて済むように町内会や商店から自主的に何人も出てもらい、立ち往生した車を移動し、自家用車で作業現場を照らしてもらった。確か地元や町内会の協力があるということで、区長も駆けつけたと思う。
 私の所属の所長も駆けつけ、作業終了後区長・所長と共に私は町内会役員や商店、地元の家を回り、お礼を言ってまわった。本当は高速道路の施設の詰まりが原因だから地元へのお礼は筋からすればそちらがすべきであるが、しかしそんなことはいってられない。地元では所長がお礼に回ったことにいたく恐縮してくれ、逆に感謝された。さらに所長は警察・消防・区に報告にまわり、ひととおり終了したのは台風も去り、朝日が昇る頃であった。それから所属の作業班に丁寧にねぎらいを述べて、所としての対応は終った。ただし、災害復旧対応(倒木処理など)は、陽が昇れば交代する場合もあるが、短い仮眠でまた続けなければならい時もあった。体にはつらいものである。
 災害対策というのはこのように、地元の協力を得て、更に自分の施設でなくとも対応しなくてはならない場合もあり、また地元も行政にそれを期待する。この時の区長も所長も、現場の職員の意向を受けて、地元対応等実によく動いてくれたと私は思っている。あれで「自分らの管理すべき施設ではないから対応する必要はない」と組織のトップが言い出したら、地元からも、地元と対応している職員からも、所長は総スカンを食らっていたはずだ。無論できないこと、手を出してはいけないこともいっぱいある。この時は道路管理者ということが共通するということと、ほっといた場合地元で床下浸水・床上浸水も想定されということで決断をしてもらった。地元に怒られても手を出してはいけないときはある。その決断を多くの納得を得ながらしなくてはいけないことはいっぱいある。それをするのがトップである。組織のトップというのはこのようなものでなければならない。

 後日談。我々が感激したのは、しばらくしてから冬休みの実習の一環として近くの小学生が事務所を訪れ、「10月の台風の時に活躍した皆さんが普段どのような仕事をしているか見せて欲しい」といって来たときである。その時以来、冬は寒いので夏に小学生を対象に何年が続けて、イベントを開催し仕事を見せる活動を始めた。

 市の職員である区長や所長と、政治家としての市長では違いがあると逃げるかもしれない。しかし組織のトップとしての責任を果さないで、部下である職員を批判をすることで存在感を示そうとする政治家が、どれほど影響力を今後も行使できるとは思えない。多いに自省してもらいたいものである。

今年度前期最後の講座

2013年09月21日 18時23分31秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 久しぶりに神奈川大学の市民向け講座に出た。前期の講座の選択の加減で9月は講座のある日がほぼなかった。連続講演会「未来をひらく思想」の第5回目。講師は安藤礼二氏。レヴィ・ストロースの「野生の思考」からはじまり、折口信夫の霊魂観を南島論を手がかりに紹介するもの。
 文化人類学には興味はあるのだが、どうもその論理というのになかなかついていけなくて、いつも挫折してしまう。今回も講義の概略はわかるのだが、どうも論理が飛躍しているようでうまくついていけないところが多い。いろいろの概念が出てくるが、その定義というか基本概念が私には曖昧なまま次々に事例が提出されて、いつの間にか結論めいたところに論がいってしまうような感じが今回もした。
 基本的にこちらの知識が足りないのだろう。一度基本的な文献をじっくりと読んでからでないと、同じように理解できなくてそのまま終ってしまうということの繰り返しだと感じた。こんなことを繰り返していたらいつまでたってもこの知の体系の入口でお終いになってしまう。
 興味はあるのだが、このような講座だけで基本を理解しようとする怠け癖に「痛く不勉強を反省」した90分であった。