Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ヒガンバナ

2016年09月24日 23時28分00秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 彼岸花、曼珠沙華、天蓋花、幽霊花、捨子花、狐花、死人花などの別名がある。地下の鱗茎から茎を伸ばして花を咲かせる。鱗茎はでんぷんを含むが、有毒なため、嫌う人もいるというが、晒すと無毒化できることから救荒作物として昔から畑や墓地に植えられていた。
 現役の頃土地の関係の仕事もしていたが、明治の頃から墓地とされた個所を探すときがあった。古い公図や昔の絵図などを頼りに探しても、墓石などがすでに地表に無くなっていることが多い。しかし彼岸花が咲くというところを探すと、土中から墓石などが出て来て、位置を特定できることを教わったことがある。
 私の住む団地の数か所でいつも彼岸花が咲く。大半が赤いものであるが、ところどころ白いものも咲く。不思議なもので咲くと「いつもの処にさいている」と思うのだがも解き終わってしまうともうその場所を覚えていない。彼岸花というのはそういう咲き方、見つけ方、楽しみ方がいいのだと思っている。

★転移てふかなしき語あり曼珠沙華     石田波郷
★曼珠沙華落暉を兵のよぎりつつ      加藤楸邨

 さて、私の住む号棟の北側の一角はいつも、いつの間にか茎がのびてきて、毎年同じ花を同じような本数咲いてくれる。ことしも茎がのびて、蕾が膨らんできたのを妻が気がついて、教えてくれた。咲くのを楽しみにしていたのだが、今朝になって妻が、「根元から切られてしまった」と教えてくれた。何十年もこの場所に住んでいるが、初めてのことにびっくりした。同時にがっかりした。
 誰かが切って家に活けたのか、「不吉」どといって刈ってしまったのか、わからない。この時期に雑草刈りはしていない。団地の共有の土地の一角なので、勝手に切られては困るのだがね困ったものである。
 今朝は朝からとてもがっかりしてしまった。いつものところにいつもの時期に、いつもの花が咲く、というのはとても気持ちが和むものでもある。また季節の移り変わりを知ることが出来る。注意喚起をするつもりではあるが、それをしても彼岸花は元にはもどらない。
 チョイと悲しい日であった。

ヘンデル「ヴァイオリンソナタ#1~#6」

2016年09月24日 22時39分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 一昨日、本日とだいぶ草臥れた。明日は出来れば引き込まりで、たまったことを片付けながら休養日としたい。
 本日は寝るまでの時間はボーっとしていたい。とりだして来たCDはヘンデルの「ヴァイオリンソナタ」。すでに幾度か取り上げたとおもうが、この曲については私は二種類のCDをもっている。グリュミオーのヴァイオリンとラクロワのチェンバロで1966年の録音。もうひとつはヨゼフ・スークのヴァイオリンとルージチコヴァーのハープシコードの組み合わせで1975年の録音。チェンバロとハープシコードは同じ楽器の表記の違い。チェンバロはドイツ語、ハープシコードは英語、クラヴサンがフランス語。
 両方ともお気に入りの演奏である。グリュミオーの方が音色は明るくメリハリが効いているように感じる。第1番から第6番まで、楽譜が頭の中に映し出されるようである。
 ヴァイオリンを習うと必ず弾く曲でもある。いづれも随分弾いた。忘れられない曲である。聴いていると左手の指が自然と動く。

   

ミラーレスカメラが故障か?

2016年09月24日 20時20分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も大雨・濃霧・雷注意報が出ている中、横浜市内の反町公園で集会があり、さらに六角橋までデモ行進。集会が始まるまでは強い雨が降り続き、退職者会の参加者チェックの紙もすっかり濡れてしまい、ボールペンでのチェックもままならない状態。それでも当初参加予定者20名を大きく上回る31名が参加してくれた。嬉しい悲鳴であった。
 集会を終わるころには小雨になり、短いデモで解散地点に着くころには雨は上がってくれた。六角橋商店街の小さなラーメン店の2階に10人が押し掛けて、ビールと紹興酒、ツマミは餃子とビーフンで打ち上げを行うことが出来た。

 参加者名簿は雨に濡れて、ようやく判読できる程度。
 困ったのはミラーレスカメラ(ペンタックスQ10)のシャッターが作動しなかった。いくら設定を変えても撮影できなかった。雨で動作に支障をきたした可能性がある。やむなく写真はスマホのカメラ機能を利用して撮影。いまも作動しない。レンズを交換すると撮影できるときと、できないときがある。明日にでも家電量販店のカメラ売り場で相談をしなくてはいけないようだ。


モーツアルト「ピアノ協奏曲第27番 K.595」

2016年09月24日 11時46分34秒 | 読書
   

 モーツアルトの最後のピアノ協奏曲である。1788年に第1楽章を作り始め、モーツアルトの死の年の1791年に完成し演奏されている。
 ピアノ、フルート1、オーボエ2、ファゴット2、ホルン2、弦五部という編成で、第24番などと違いクラリネットは使っていない。曲全体としてはピアノの比重が大きい構成となっている。ピアノソロのトレモロがいかにもモーツアルト的としか表現の仕様の無い美しさである。しかし第26番の「戴冠式」と違い、落ちついた雰囲気が漂う。
 第2楽章に至って私はいつも秋も深まった初冬の落葉樹の林を葉を踏みしめながらゆったり歩く自分を想像する。木管とピアノの掛け合い、弦楽器のからみが私の好みである。疲れた時にこの音の呟きに浸るのがいい。全身から余分な力がひいていく。
 第1楽章、第3楽章ともモーツアルトのカデンツァが残っている。いつものとおり内田光子、ジェフリー・テイト指揮のイギリス室内管弦楽団の演奏で、ここでもこのモーツアルトのカデンツァを使っている。録音は1987年。
 それぞれ楽章とも主題が明確に耳に残る。主題の変奏、発展がわかりやすいのもこの曲の特徴だと思う。