Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

休養日はヘンデルのヴァイオリンソナタ第4番を聴きながら

2016年09月29日 22時13分04秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 昨日はデモ2回。ウォーキングのような歩き方ではなく、ゆっくりの歩きであったが1日を通しての歩数は2万2千歩余となっていた。ゆっくりといってもトータルで時速4.4キロだったのでそれなりに疲れた。
 本日は休養日、午後からはごく軽い散歩を兼ねて妻と金融機関と区役所とそして買い物へ。途中かねてから入りたいと思っていた静かな喫茶店で30分ほど寛ぐことが出来た。チェーン店では味わえないストレートコーヒーをドリップで淹れてもらった。値段も高くなく、妻の注文したシフォンケーキも上品な味わいであった。これからも利用してみたい。

 夕方からヘンデルのヴァイオリンソナタを再び聴いている。6曲ともお気に入りであるが、特に第4番に惹かれる。傑作としてよく取り上げられる。おっとりとした第1楽章、のびやかな第2楽章、メランコリックな第3楽章、軽やかな第4楽章、いづれも対比がよく一体感がある。特に第3楽章はバロックというよりはロマン派の曲への通じる何かを感じる。

 雨は降っていない。これから30分ほど軽く夜の散歩に出かけてみたい。

 明後日の1日(土)に墓参りの予定を立てたが、本日の天気予報では雨のマークがついてしまった。予報が変わることを願っている。

「鈴木其一展」後期展示に期待

2016年09月29日 18時50分34秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 鈴木其一展の感想にコロコロ様から素敵なコメントをいただいた。感謝にたえない、うれしいコメントである。
 このコメントに刺激を受けて再び其一展の図録をめくっている。やはり10月5日以降の後期展示も見に行きたいという思いが強くなった。
 戦記展示での感想では触れなかったが、群鶴図屏風や三十六歌仙・檜図屏風、松島図小襖にも惹かれている。いつか触れたいと思っている。
 後期展示ではやはり夏秋渓流図屏風と風神雷神図襖に注目したい。図録だけで感想を書くのはどうも気が引ける。
 また蔬菜群虫図、四季花鳥図屏風、藤花図の比較、雪中檜図、毘沙門天象、瀧上白衣観音像、初荷入船図などをじっくり見てみたいと思っている。

 若冲の作品、先日横浜美術展で見た中島清之の作品との関連などなどいろいろ頭の中で渦巻いている。
 さらに水墨画も面白い。若冲の水墨画よりはまとまりが良くて、こじんまりと整いすぎている感じがしないでもないが、注目している。


「亡くなる」と「死ぬ」(続き)

2016年09月29日 11時39分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 わたしは「亡くなる」は「死ぬ」の丁寧語だとばかり思っていた。先に引用した広辞苑初版や字訓ではそのような表記はない。だが、「お亡くなりになる」という表現がされるので、「亡くなる」そのものには尊敬の意味合いはないといえるかもしれない。
 私の手元にある「角川新国語辞典」(1994年107版)では、
★なく・な・る【無くなる】1.ない状態になる。尽きる。2.うせる。紛失する。3.【亡くなる】死ぬ。
と表記されている。最初に【無くなる】として2つの意味を書いてから、【亡くなる】として3つ目の意味を記載するという不思議な並べ方をしているのが、気に入らないが、少なくとも「丁寧語」という表現はない。

 とここで探索はおしまいにするつもりだったが、本棚の片隅に久松潜一・林大・坂倉篤義監修の「国語辞典」(講談社学術文庫、昭和54年)を見つけた。そこには、
★なくな・る【亡くなる】「死ぬ」の尊敬語
と表記されていた。

 やっとたどり着いたという気分にはなった。だが、むかし中学校の時、国語の先生から久松潜一については戦前のイデオローグとして否定的な評価を聞かされて、それが印象に残っている。それ以来近寄らずにいたので、ちょっと複雑な気分ではある。逆にこの辞書に記載されているからといって、それで納得したという気分にはなりたくないという、それこそ思い込みで人を見るということになる。

 今度はネットで調べると、いろいろ出てくるがビジネス用語として尊敬語としてビジネスマナーとして使用例が出ている。
 そしてやはり「亡くなる」は婉曲表現として使われるということがようやく理解できた。

 ということで私がセキセイインコの死を「亡くなる」と表記したのは、表現として適切ではなかったことになる。

 恥ずかしながら過去の記事は訂正した。