「言葉の泉」というブログに「白露」と題した一文が掲載されている。【
http://blog.goo.ne.jp/rurou_2005/e/14e57a9aa246f0283bb2dd5b0d2f2229】。
以下引用させてもらう。
露の中万想うごく子の寝息(加藤楸邨)
(穂高病む)の前書きがある。
露がおりる秋も深くなりつつある夜、病んでいる子どもを看病する作者。
白露がおりる秋の夜は美しくもわびしい。
わびしくもはかなげな露をおもうとき、今病んで寝ているこどもの寝息をうかがいその生死を不安に思う気持ちが重なる。
「万相うごく」にそれは一気に凝縮される。
苦しげな子どもの寝息の中、一切の秋の万相は動いているのだ。
一刻一刻を不安にすごす親と子の枕辺に美しいまでに光る白露の秋が暮れていく。
露ははかなく無常なものをおもわせる、せつないばかりの余情がただよう句である。
この句のことは知らなかった。加藤楸邨句集を見たら初期の代表となる句集「寒雷」の最後にある「達谷抄」(1940年)14句の中にあった。この達谷抄は死が色濃く匂う。死を直接うたった句が4句、病いを詠んだ句が2句、それらと重複するが軍隊をうたった句が4句。日中戦争が大きな行き詰まりを見せ、太平洋戦争に突入する前年の作品群である。
なお「穂高」は楸邨の長男の名。14句の中から5句を選んでみた。
・春塵の没日音なき卓を拭き (前書きに「教へ子斎藤中尉戦死」)
・露の中万相うごく子の寝息
・蟷螂の死に了るまで大没日
・寒光る雲の磊塊砲車過ぐ
・炎天の一隅松となりて立つ
1940年というと午前中にアップした石田波郷の「露葎軍靴のあとを日々とどめ」とごく近い時期に作られた句である。行き詰った日中戦争下の重苦しい時代を写し取っている。自分の幼い子の重病までもが、そのような時代の中で押し潰れそうな社会や家族とかぶさっている。戦の世による「死」が日常的に浸透しつつあったと類推できる。
「春塵の‥」の「音なき卓を拭」く行為に、持って生きようのない感情が滲み出ている。
「蟷螂の‥」は有名な句である。小さな枯蟷螂の黄土色と、巨大なエネルギーの塊の橙色がかった大没日の対比が、小さな生命体の意地を見るという解釈を教わった。「英雄的な死」が礼賛される当時の社会背景の中、これをさらに蟷螂の不動の姿勢に「将兵の英雄化された死」を見るという拡大解釈は私にはできない。「死」は戦での死だけに意味があるのではない。日常の中での「死」にこそ人としての尊厳があるはずである。蟷螂はそれを認識する手かがりとしてあると思う。
「寒光る‥」の句。磊(らい)とは、多くの石が重なり合う様、または大きな石の意であるという。寒光るという季語であるから、丸みを帯びた柔らかい雲の意よりも、冷たい身を切る風をもたらす雲の印象であろうが、それでもイメージとして砲車につながるのは異様である。むろん2句と3句で切れているので磊塊と砲車は直接の因果関係でも形容関係でもないが、イメージの連鎖という関係を想定しなくてはならないだろう。雲が作者の日常を圧するような重しとして認識され、さらに砲車という戦の世を象徴する重量のあるものと繋がるという感覚。「死」と「戦」が日常に深く食い込んでいる時代である。
「炎天‥」の句、松となった立つのは誰であろうか。炎天からの光と熱の強い放射を受けて立ち尽くすのは作者、「教へ子」、「死と闘う病の子」‥いづれであろうか。松は「蟷螂」でもあろうか。