Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「ニュートン」8月号

2017年07月20日 23時15分06秒 | 読書
 本日も暑かった。昨日2万2千歩も歩いたので本日は病院への往復と若干の買い物の付き合い程度で約8千歩あるいただけであった。それでも病院から帰ったときにシャワーを浴びて下着を取り換えた。



 昨日購入した「ニュートン8月号」を斜め読み。この雑誌は物理学や数学から離れて半世紀近く立ってしまった人間にはとても難しい。現代科学や宇宙論の動向を見るだけの私にはわからないことばかり。難しいところはさっさと飛ばして読むようにしないととてもではないが、読み切れない。斜め読みしてわかった気になる程度が私には相応しい、と割り切っている。

今の「医薬分業」への違和感

2017年07月20日 18時48分24秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日の視野検査の結果はあまり芳しくなかった。右目は視野も眼圧も変化はないのだが、左目の視野と眼圧がよくない。見えていない範囲も広がっている可能性があるようだ。
 点眼薬が変更になったが、以前のように副作用で痒みが出たり、赤く被れたりするとまた薬を変えなくてはいけない。副作用のことを考えると使う薬の範囲も限られてしまう。難しい判断を医師にしてもらわなければならない。

 医薬分業ということで薬は薬局で出してもらいことになって久しい。しかし当然ながらかえって患者の負担が増えている。そのことは高齢者や難病の方に対する特例措置をキチンとすることが将来的に可能ならば、私は特に異存はないのだが、体験的には費用のこと以外に疑問がないわけではない。
 それは次のようなことがまかり通っていることである。普通は医師が患者と相対して会話をしながら薬を処方してくれる。今はそこでちゃんとした会話が成立しない医師は淘汰される時代でもある。しかも病院は医師と患者が個室で相対して会話をしており、他の患者にその会話は聞こえない。聞こえたとしても日頃顔を合わせている患者同士、特に違和感もない程度で済ませられる。
 ところが薬局に行くと薬剤師が個室ではない大勢の患者や付き添いの人間がいる前で、しかも高齢者を相手にしているので大声で、患者の名前や病名や症状を確認する。そして薬が変わったのは、症状にどういう変化があったのか、薬は一人で飲めるかなどと聞く。さらに医師からいわれているような薬の注意点を繰り返すようにくどくどと、長々と喋りはじめる。私はこのおしゃべりが何としても苦手である。プライバシー云々よりもこの長ったらしい説明がどうしても馴染めない。医師とは違う観点からの指摘があれば、あるいは「服用にあたって不便だったりしことはないか」とか「飲み忘れた時の対応方法は‥」などの問いかけならばいい会話となるかもしれないが、医師と同じことを繰り返し一方的にまくしたてられるのは勘弁してもらいたい。
 私はいつも説明が始まると「会計は?」という発言をして説明を拒否するようにしている。それでもしゃべり続ける薬剤師には「静かにしてください。説明は医師から受けていますし、他人に聞かれたくありませんので迷惑です」といっておしゃべりを止めることにしている。
 「いいこと」というのは一方的な判断だけでしかない。善意も悪意にかわることがある。
 医薬分業、掛け声だけの建て前で済ませられているようでいて、極めて不快である。


「不染鉄」展 感想3

2017年07月20日 14時16分28秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 1950年代を中心に不染鉄は伊豆大島岡田村の俯瞰図を素材にして、画面下(手前)に海の中の魚を描き、画面上部(遠景)に向かって波、船、断崖、港、町並み、里山、遠い山を順に描いた縦長の作品群を作り上げている。ここに掲載したのはその一連の作品の中の「思い出の伊豆大島岡田村」(1955年、星野画廊蔵)。
 特に波の描写が大きな割合を占めている。しかし特徴は断崖とごつごつした岩(火山のマグマで出来た奇怪な丸みを帯びた岩礁帯)が特徴のある造形である。家々には人が端座している姿が描かれているものもある。大島の漁村の風景は画家にとってはわずか3年の生活であったようだが原風景にも近い印象的な、そして発想の原点でもあるような場所だったのであろう。遠景の山は富士山にも似た印象すら与える。
全部の作品ではないが、帆をあげた漁船と思しき船には人が描きこまれている。そしてほとんどが水墨画か、ほぼ単色の作品である。波の柔らかな曲線と黒く塗りつぶされた海水面、硬い岩を表す曲線と白い表面、このコントラストもまた見どころである。



 敗戦後すぐに奈良の風景を描きはじめ、次第に薬師寺東塔を中心にした構図に発展してゆく。1960年代後半から1970年代にかけて富士山の図のように左右対称になり、近景に東塔を描き背後に若草山が光背のように描かれるようになる。手前に鬱蒼とした森が配される。同様の作品に唐招提寺金堂を描いたものもある。
この頃は伊豆の水墨画風の作品ではなく彩色され、配色が美しい。東塔の背後から若草山までの水色と空の黄色味が私にはとても効果的に見える。そしてここでも横になびく青の線が遠近の強調におおきな役割を果たしている。
 不染鉄という画家は、ひとつの風景をいくつも描きながら少しずつ形を変え、左右対称の独特の画面構成に変わっていく。その変化を楽しむのもまた鑑賞の楽しみであると思う。

   

 次の「いちょう」(S40年代、個人蔵)などの銀杏の黄落も執拗に描かれている。そしてこのシリーズは「落葉浄土」(1974年、奈良県立美術館蔵)に結実していると感じた。初期からこだわってきた民家の延長のような古い寺の佇まいには諸仏・菩薩の像がならび、仁王がいかめしく経っているものの人を威圧するものとは思えない。背後に力を秘めているとは思えないほど、背景の森にとけ込んでいる。そして左手に父子の姿らしきものも描かれている。銀杏の大木とこの父子が左右の均衡を保っているように感じた。



 このような題材ごとの作品群の中に異様に迫力のある1枚の作品がある。「廃船」(1969年、京都国立博物館蔵)という作品である。この作品には驚いた。
 高さ47センチ余り、横が100センチを超える大作である。巨大な鉄の船がほとんど船底を見せて港を圧するように停泊している。港の船と比べるとその異様な大きさに驚く。これは現実の船ではない。画面の手前にはあばら家のような小さな家がひしめき、貧しい人々の生活が垣間見える。船のすぐ下に描きこまれた家々よりも狭く、直立せずに傾いた建物すらある。そしてこの船は戦争用に戦闘艦ではない。客船のようである。
 解説によると「天にも地にも海にも、救いようのない暗く重苦しい空気が漂う、他の作品とは一線を画した異色作」とある。
 また図録の冒頭に松川綾子奈良県立美術館学芸員は「時は日米安保闘争と学生運動のさなかの昭和40年代、多くの尊い生命を奪った戦争への激しい怒りを込めて制作された《廃船》は、不染の内なる良心と正義感の表れである。もえさかる戦火を背景に帰らぬ船となった焼け焦げた船体は、戦争によってすべてを失い抜け殻となった無力な人間たちの姿であり、恐怖や悲しみ、憤りといった感情を越え、深い喪失感と虚脱感が漂っている」と記している。
 大筋はこの指摘は首肯できる。このような大きな船のような重しを背負って敗戦後の日本は歩んできた。国内の経済の土台を失い、アジアでの信用と位置を喪失し、数えきれない人の命を喪失させた。そんな重苦しい思いが作者には居座っていたのである。これが、敗戦後教育に携わり、社会党員としての活動を促し、付近の奈良女子大の学生との交流を続けたのであろうと推察できる。



 残された多くの絵葉書や文字が入った作品は細かくびっしりとした文言が溢れている。画家は思いのほか饒舌にさまざまなことを語っている。学生運動に寄りそう文章もある。それらの文章をすべて読むことはとてもできなかったが、多分若い人に充分に伝わることばであったのではないかと推察できる。私が当時この画家のことを知っており、その言に注目していたらどのような反応を示し、どのような影響を受けたであろうか。