Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

ふたたび強い雨

2017年07月29日 23時09分10秒 | 天気と自然災害
 この時間(23時過ぎ)でも、なかなか雨が上がらない。いったん収まるように強い雨の区域は川崎・横浜市域から消えたものの再び時間雨量50~80ミリの強い雨の区域が現われ、横浜市の中心部に居座っている。ほとんど動きがない。明け方までこのような状態が続くのであろうか。
 大雨(土砂災害)警報・洪水注意報が継続している。浸水等の警報は解除になった。

「吉田博展」

2017年07月29日 22時12分21秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 本日は損保ジャパン日本興亜美術館に「生誕140年 吉田博展」を急きょ見に行くことになった。妻と二人分の無料招待券があると朝にいわれ、昼前に慌てて出かけた。「ベルギー奇想の系譜」の感想の方が本当は先に仕上げなくてはいけないが、今回は先にこの吉田博展を取りあげる。
 吉田博という画家、那覇聞いたことがあるが、作品を直に見るのは初めて。黒田清輝の「白馬会」に対抗した「太平洋画会」の設立者であることをはじめて認識した。太平洋画会(現太平洋美術会の前身)は「白馬会」解散後、現在まで存続している。日本においてよりもヨーロッパ・アメリカで人気があった画家であると聞いていた。
 本日まとまった展示をはじめて見たのだが、今のところ私にはまだピンとこない画風である。特に気に入った、感銘を受けたという作品はなかった。ホイッスラーの影響など、確かに確認することは出来た。夏目漱石が「三四郎」で取り上げた「ヴェニスの運河」(1906(M39)年)は奥行き感もあり、色彩の対比も好ましいとは思った。
 その他薔薇の花を描いたシリーズ「バラ(1)~(7)」なども印象には残った。山岳を描いた作品でいくつか印象に残ったものはある。「雲海に入る日」(1922(T11)年)、「穂高山」(1910~20(大正期)年代)などは陰影が強調され、山岳絵画としての視点は斬新に思えた。
 版画作品も多くが展示されていた。広重や川瀬芭水などを思い浮かべるような情感ある作品には惹かれるものもあった。大きな作品や同じ版木で色彩を変えて、時間の推移を表現する試みなどもある。
 しかし私の目には新しい表現、新しい色彩感覚、造形感覚という点で、私の頭にはインパクトがなかった。私にはまだまだ理解できるだけの経験はないのかもしれないと、感じた。
 印象として縦長の画面の油彩画などがあった。たぶん水墨画や日本画の素養に基づくものであったと思われる。しかしあの縦長の画面の特徴ないし遠近法などの技法が油彩画に生かされていたとは私には思われなかった。
 もうひとつの印象として、日本と西洋という関係での葛藤が画家の中でどのように処理をされたのか、手がかりが感じられなかった。

         

         



横浜には大雨・洪水警報

2017年07月29日 20時22分30秒 | 天気と自然災害
 17時40分には横浜・川崎市域に大雨(土砂災害・浸水害)警報ならびに洪水警報となった。雷注意報も継続している。
 レインアイよこはまで見る限り警報が発令されたころには時間雨量換算で80ミリの雨の区域があったものの、今は10ミリ未満の区域ばかりとなった。
 20時20分現在、大雨・洪水警報は出たままで、変更・九死にはにはなっていない。
 横浜駅の東西自由通路は混雑ですごい人混み。強い雨で幾分電車に遅れも出ていたのが原因であろうか。夕食を食べてビルの外に出たがまだ強い雨が降っていた。家に着いた頃にはその雨も落ち着いている。

 つい今しがた20時24分に、洪水警報と雷注意報は解除となった。大雨警報は継続している。

「図書8月号」を読みながら‥

2017年07月29日 15時10分24秒 | 読書
 先日訪れた「ベルギー奇想の系譜」では「大きな魚は小さい魚を食う」(ピーテル・ブリューゲル(父)の版画版、1567)を見た。とても理解が難しいのだが、「図書8月号」におさめられている「ブリューゲルと宗教改革(上)」(宮田光雄)ではこの作品を解説している。
 また同時にピーテル・ブリューゲル(父)の「十字架への道行き」(1564)も取り上げている。この作品は今回のBunkamuraザ・ミュージアムでは展示されていなかったが、どこかで見た記憶がある。この解説を読むのに、「図書8月号」の図版が荒すぎて解説が今ひとつの見込めない。できればもう少し鮮明な図版を見ながら解説を読みたい。
 私の家に図版があるはずだと思って探したが見当たらない。せっかくの解説なので、どこかで手に入れたいものである。
 「ブリューゲルと宗教改革」という表題ももた私には魅力的な題である。

天満敦子「望郷のバラード」

2017年07月29日 11時30分29秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等


 先日に続いて天満敦子のヴァイオリンのCD。本日は「望郷のバラード」。ビアノが本多晶子。録音は1993年。
 前回の「哀歌 ベルタのノクターン」とは違ってある意味西欧的な明るというものが漂っている。よくスラヴ的な「哀愁」とうことばが云われる。厳密にどういう感情なのかはわからないが、私の感覚ではこのCDから漂うのは「哀感」という言い方があっているかもしれない。
 ヘンデルのヴァイオリンソナタの第4番と第6番、ブラームスの「ハンガリア舞曲」から3曲最後にポルムベスクの「望郷のバラード」で締めくくっている。その間にコレルリ、ベートーベン、クライスラー、サラサーテなどの小品が挟まっている。
 この最後の「望郷のバラード」に至って私はどこかホッとするものがある。
 そして「望郷のバラード」の直前にスペインのバスク出身のサラサーテを配置している。
 ヨーロッパの歴史を紐解いて論じるのはあまりにことが大きすぎる、そして私はそこには住んでいないので、何とも言えない。ヨーロッパの東西、言語、民族、文化、歴史、音楽のありようも違いがあるのであろう。
 二つの曲集、天満敦子がどのように選択し、どのように弾き分けたのか、ただ雰囲気としてその違いがわかる。そこに演奏者が、ヨーロッパの歴史をどのように解釈しているのかまではわからない。
 人は、世界を理屈で理解はなかなかできないが、感覚では理解できるものであるらしい。
 天満敦子の厚みのあるヴァイオリンは心地よい。