友人のブログ【⇒こちら「
昭和音楽の風景」の「村の鍛冶屋は平和産業」】に次のような表現を見つけた。なかなかの表現だと感心したので、引用してみる。
「原理主義とは、改善・改良のための思考・試行の努力を放棄した思考の怠惰に過ぎぬ」。
まさしくそのとおりであると思う。「原理主義」というと「イスラムの原理主義」と刷り込まれてしまっているが、現代の世界を動かしている政治こそ「資本主義の原理主義」に陥っていないか。日本の政治もそのさいたるものではないのか。むろん中国もアメリカもロシアも、それを追随する国々も例外ではない。
「戦争」や「国家悪」を忌避してきた日本という国、「忌避」がいつの間にかそれらを意識の外に追いやってしまって、肝心の「戦争批判」「国家悪批判」が空洞化して希薄になってしまった。そしてとうとう忌避してきた「戦争」「国家悪」そのものに侵食されてしまっている。安倍政権というものが、戦後の理念の空隙を縫って成立してしまった。
彼等には早々に退場願わねばならないのだが、一方で戦後の混乱期、市民の多くが貧しかった時に出来上がった各種の福祉政策など社会保障や相互扶助、基本的人権、平和主義、政治の公平公正、教育の機会均等、政治の規範などをもう一度、少子高齢化社会・活力を失いつつある社会状況を踏まえて、捉え直さなければならない時期に来ているようだ。これらは戦後憲法に裏打ちされた制度である。
末端ではたらく者の給与所得が減少することで貧富の差がどんどん拡大している現状ならば、健康保険や失業保険・年金・各種福祉政策など社会保障システムは、より機能の充実が求められなければいけないのだが、市場の原理主義の徹底でそれらが否定されようとしている。成功した者=能力のある者、貧しい者・保護を受けなければならない者=淘汰されるべき者、という理屈が平然と政治家や政治家をめざす者の口から吐かれている。
強者、権力者に擦り寄ることが「悪」といわれた規範がますます希薄になっている。「被災者」「被害者」「社会的弱者」等々に寄りそうことが「余計なこと」であり、彼等は自助努力が足りないために今の状況に自らなっている、ということが平然と語られるようになった。
受益者負担論で国公立の大学の授業料を値上げし、義務教育を有償化してきた。これも「原理主義」といえる。
年金制度も本人の積み立てた分に企業の負担分と合わせて将来受け取る、という仕組みで発足した。しかしいつの間にか、若い世代が高齢の世代を支える、と言い始めた時から制度の根幹が揺らいでいる。企業・国家の負担分も含めて年金受給世代が積み立てた分の不足を、現役世代にいくら負担してもらっているのか、それすらも明らかにしようとしない中で、現役世代〇○人で年金世代◎◎人を支えている、というたぐいの宣伝ばかりが先行している。これは企業が社会的システムから少しでも自由になりたいという「市場原理主義」と結びついて、現役世代の不平等感を煽ることになる。「原理主義」は企業の論理に押された政治が、制度の根幹を破壊するためのいいわけでもある。
ひょっとしたら国民健康保険制度なども、今成立を図ろうとしたら、世論動向では否定されてしまうかもしれない。アメリカの状況をあざ笑うことは出来ない。