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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

歩き方はスムーズになったようだ

2017年07月21日 23時40分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 明日は午前中は団地の管理組合の仕事、午後からみなとみらい地区での講座。間に合うかどうかギリギリの時間である。
 みなとみらい地区まで歩いていこうかと考えていたが、時間的に厳しいので断念、地下鉄を使うことにした。あまり暑い中を無理して歩いて行ってもつかれて寝てしまいそうである。寝ない自信はまったくない。
 帰りは横浜まで歩いて喫茶店で一服というのがいつものパターンである。ときどきは途中の喫茶店で休むこともある。この一服が夏・冬関係なくとても気分のいい時間である。

 本日も石川町から歩いて帰ってきた。往復約1万8千歩、そして先ほど夜のウォーキングを久しぶりにしてみた。合わせて2万2千歩。最近は坐骨神経痛の心配なしに歩けるようになった。以前よりはスムーズに芦が前に出てくれる。これまではどことなくぎこちなかったようで、友人に今までの歩き方とは違うといわれていた。今はなんといわれるであろうか。

暑さに少しまいっている

2017年07月21日 21時35分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日も暑かった。昼間は32.6℃まで気温が上昇したという。横浜は東京・埼玉・群馬ほど暑くないのがありがたい。横浜上空で熱せられた空気が海風に載って東京・埼玉・群馬に行く間にますますヒートアイランド現象で暑くなっていくのであろうか。
 すると、暑さは横浜から始まるということになる。暑さに悩む地域の方には申し訳ない気分になってしまう。私個人の責任ではないのが救いではある。

 慌ただしさと暑さで読書にもあまり身が入らない。夏バテにはなりたくない。そして読書のために冷房の効いた部屋に籠るのも性格的に合わない。喫茶店に歩いていくと、暑さで疲れて寝てしまう。どうもうまくいかないものである。

 来週は友人の息子の「たかくらかずき展「有無ヴェルト」」を見に銀座に行こうかと考えているが、果たして実行できるか。→【http://rcc.recruit.co.jp/gg/exhibition/gg_sec_gr_201707/gg_sec_gr_201707.html
 私の固くなった頭で理解ができるか、頭の中に納めることが出来るか、はなはだ疑問である。頭の体操のつもりで新しいものを見てみようかと思う。
 紹介文には「たかくらかずきはドット絵を用いた平面作品で第7回グラフィック「1_WALL」のファイナリストに選出されました。その後も画像を構成する最小単位である「ピクセル」をテーマに、イラストレーター、アーティストとして多岐に渡る作品を発表し、2016年「スタジオ常世」を設立、ゲーム開発をスタート、2017年には演劇の脚本を手掛けるなど、近年ますます表現の場を広げています。本展では、ドット絵や絵文字といったデジタル表現を使いながら、見る角度によって絵柄が変化するレンチキュラー作品や、バーチャルリアリティ(VR)作品を中心に展示します」と記されている。

 会場を前にしてオロオロしてしまう自分を見つけるかもしれない。

「塵泥の数にもあらぬ‥」(万葉集巻15から)

2017年07月21日 18時15分50秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
★塵泥(ちりひぢ)の 数にもあらぬ 我れゆゑに 思ひわぶらむ 妹(いも)がかなしさ (3727)
★あをによし 奈良の大道は 行きよけど この山道は 行き悪(あ)しかりけり (3728)
★愛(うるわ)しと 我が思ふ妹を 思ひつつ 行けばかもとな 行き悪(あ)しかるらむ (3729)
★畏(かしこ)みと 告(の)らずありしを み越道(こしぢ)の
                    手向(たむ)けに立ちて 妹が名告(の)りつ (3730)


 訳は
(3727) 塵あくた同然、ものの数にも入らぬ私ゆえに悲しみに嘆いているあなた、何ともいとしいひとだろう。(大岡信)
(3728) おをによしなら、あの都大路は歩きやすいが、遠い国へ向かうこの山道は何といきづらいことか。
(3729) 愛しいとわたしが思い詰めているあの子を心にかけながら配所に行くので、この山道はむやみに歩きづらいのであろうか。
(3730) 恐れ憚って口に出さずにこれまで来たが、腰の国へと超えていく道の手向けの山にたってとうとうあの子の名を口に出してしまった。

 3727以外の3首の訳は、伊藤博の訳をわたしなりに変えてみた。3727の第3句「われゆゑに」の訳が私にはよくわからないが、「私など塵あくたのように下っ端の人間なので、奈良に戻るようなことなどないかもしれないが、それでも私を慕ってくれるあの子が愛しい」という意味に解釈できるのではないか。高位高官ならば恩赦や返り咲きということもあるだろうが、下っ端の私にはそれはのぞむべくもないという自嘲なのだろうか。
 この最初の1首は塵泥(ちりひじ)ということばの響きで持っている歌である。他の3首も前回とりあげた、巻15の冒頭の女から男への歌と比べると地味で、思いの強さや表現の斬新さは感じられない。しかし地味で突拍子もない表現、耳目を驚かすような表現はないが、切々とした訴えであることはわかる。

 女から男への歌にあった「道の長手を 繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天(あめ)の火もがも」や「けだし罷(まか)らば 白𣑥(しろたへ)の 袖を振らさね」などの読む人の心に響く表現や、畳みかけるようなリズムを持った歌ではない。女から男への歌では、想いを表す表現とリズムとがともに躍動感がある。しかしこれに唱和するかのような男から女への歌では表現もある意味平凡でリズムにも躍動感が感じられない。最初の「塵泥(ちりひぢ)の 数にもあらぬ 我れゆゑに」は切実感は感じられるが、他の3首は平坦な一本調子に聞こえる。だが、地味だが女への誠実さがこもった歌だと感じる。真面目さが伝わる。
 このグループの63首全体がまだ目をとおしていないので、これだけでは断定はできないが、男女の贈答歌、別離の歌の女からする切実感は、やはり万葉集の大きな特徴といわれるのは間違いがいがないのではないか。

 ただよくわからないことがある。この4首を見る限り、峠で女の名を口にすることがタブーとして認識させられていたらしい。それがどのような信仰に基づくものなのか、よく分からない。伊藤博の解説でもこれについては触れていない。この個所ですでに触れていることなのか、それすらもわからない。