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今月号で目をとおしたのは、11編。いつものとおり覚書としていくつかを引用。
・[表紙]ダリのヒロシマ 司 修
「亀井文夫監督「流血の記録 砂川」を観に行ったことがあります。農民と支援者たちが機動隊の警棒で突っつかれ撲られるのを見ていると、無力であった自らに対して涙が流れるのでしたが、客席の老人たちがすすり泣いていたのは、怒りと悲しみからだったと思います。そのころ、国家秘密法案が国会に再提出されていました。‥「政治」と芸術表現は、‥自分自身の問題でもあったのです。‥昼間、夢とも幻覚ともつかぬものにわたしは入り込んでいました。わたしの身体は、七、八個のブロックに解体されていて、それぞれが一つの部屋になっていました。小窓と扉が開いていて、わたしはパタパタとそれらを閉じていきました。各部屋の中で理解できない言葉をつかい、何かが行われていたのです。全体がわたしの身体であるのに、七、八個のブロックは別個に浮遊していました。‥まるでダリの「炸裂したラファエル風の頭部」のようでした。ダリはヒロシマを描きましたが、ふだん政治的ではないのです。それでもいいはずです。」
・徹底して戦争と死について書く 沼野充義
「ベラルーシの記録文学作家、スヴェトラーナ・アレクシエーヴィッチは、戦争と死のことばかり書いてきた。代表作「戦争は女の顔をしていない」は第二次世界大戦で銃後を守るだけでなく、前線でも闘い、勝利に貢献した百万を超える女たちの過酷な経験を、無数の声の織り成すポリフォニックな女声合唱のように描き出しい。‥彼女は記録者として厳しく現実に向きあうが、「ちっぽけな人たち」の気持ちに寄り添うその姿勢は限りなく優しい。ここで示されるのは、徹底して戦争と死について書くことが、平和と生のもっとも力強い擁護になるという逆説である。アレクシエーヴィッチの書く戦争や原発事故は、実は日本のことでもあるのだ。今、日本でこそ読まれるべき作家ではないか。」
・ドードーはどこへ行った? (上) 川端裕人
・子どものころの日曜日の朝 ラサール・石井
・女らしさ 畑中章宏
・SFとウィルスと黒幕のはなし 笠井献一
・悲哀の哲学 西田幾多郎生誕150年に寄せて 小坂国継
・誰と何のために戦っているのか? 中川裕
「知里真志保は‥「ユーカラと云うのは、北海道を本拠とするヤウンクル(「内陸人」「本州人」「北海道本島人」)と、大陸の方から海を越えてやって来て北海道の日本海岸の中部からオホーツク海岸の各地に橋頭保を確保して住んでいたレプンクル(渡来の異民族)との民族的な戦争の物語」であると述べ、レプンクルはオホーツク(文化)人、ヤウンクルは擦文文化期のアイヌを指しているという仮説を立てた。‥これを具体的に立証しようとしたのが、歴史学者の榎森進である。しかし、‥北海道アイヌが侵略者を一致団結して撃退した物語という、そんな単純図式でまとめられるようなものではない。」
・月桂樹とレモンの香り 亀山郁夫
「ドストエフスキー自身、度重なるヨーロッパ放浪中ね行く先々で大聖堂を視察しているから、「磔刑」や「奇跡」の現場を、まさにそれらの建物との対比の中でリアルに想像できたはずである。そしてこの大聖堂の、有無をいわさぬ威光を背にできたからこそ、今や齢90になんなんとする大審問官も、れだけの自信をもって「神の子」を追放できたのだ。」
・二冊のロシア巡礼記 四方田犬彦
・それはだれのものか、と問う声がする 赤坂憲雄
「「もののけ姫」が網野善彦さんの歴史観の影のもとに作られたことに思いを寄せずにはいられません。そこにはきっと宮崎監督が意識されている以上に、深い共振れのようなものが見え隠れしています。‥それは確実に、東日本大震災以降の、わたしたちの生きる現場へと繋がっています。‥震災の年に、福島第一原発が撒き散らした放射性物質はだれのものかを問いかける小さな裁判が行われました。そのなかでね東電側が主張し、裁判官もあいまいに認めた奇妙な論理らしきものがありました。つまり、放射性物質は本来的に「無主物」であり、それはいまゴルフ場に付合しているから、その所有権はゴルフ場にあり、東電の所有物ではなく、したがって東電には除染の責任はない、という論理立てでした。‥この時代には、あまりに言葉が傷つき、行き場もなく足掻いています。わたしの耳にはあの「無主物」という言葉が息も絶え絶えに漏らすうめき声が聴こえてきます。」
・九相図の彼方に 長谷川櫂
「骸骨の土を粧ひて花見かな 鬼貫
死んでしまえばみな骸骨。髑髏が紅をさし眉を引き白粉を塗りたくっているようなもの。‥鬼貫はきっと九相図を思い浮かべていたにちがいない。九相図はしによて人間の肉体が腐乱し、ついには野辺の土となり果てるまでを九つの絵にしたもの。‥」
「よく生きてよき塵となれ西行忌 山田洋
西行のように存分に生きてこそ、よき塵になれる。塵とは九相図も描くとおり骨のことだが、人間も動植物も命あるものが死ねば肉体は塵となって宇宙に散らばる、その散りである。」
「癌の芽を摘みて涼しき体かな 山田洋
睨みゐる目玉が一つ原爆忌
鶏頭や闇より黒く闇の中
夏痩せや地獄草紙の鬼に似て
この旅に生きては行けぬ花野あり
帰るなら眠れる山へ帰りたく」