本日は雨が降ったこともあり、一日家の中で過ごした。夕方から体温が平熱の範囲を0.3℃くらい上回った。唇のあたりが少しはれぼったく感じている。昨日と同じである。
家の中で動く分には特に支障はないが、出歩くのは怖い感じがする。
明後日の月曜日には退職者会の幹事会がある。朝からさまざまな会議をいつものようにこなしながら、資料作りなどをしなくてはいけない。しかもニュースの発送作業の月である。
一応ブロックの会員宛のニュースは今印刷をしている。全体のニュースは印刷所から明日の昼までには届くことになっている。そして会議の資料の一部を打ち出した。明日は残りの資料を打ち出して終了。コピーは組合の会館にて行う。資料は原本を一部だけ打ち出せば終る。
準備はほぼ出来がった。しかし発熱が起きると出来なくなるので、明日の午前中には終えてしまいたい。
明日は晴れて暖かくなるとのこと。発熱もなく、作業が滞りなく終わってほしいものである。何よりも月曜日、体力が持ってほしい。
円山応挙の作品に「雪松図屏風」があり、ここに掲げたのは左双である。以前にこの作品について感想を記載したことがある。
日本の松の幹の株は左から風が松に向って吹いて、雪が左側についている。しかし松の先端に行くほど雪は左から正面にずれていく。左の松では実際に近い。右の松では右に分かれた枝には右側に雪が着いている。そのことが今も気になっている。
午前中に狩野探幽の「雪中梅竹遊禽図襖」をはじめて見た。ここに掲載したいが、いい画像がないので断念した。この探幽の作品では雪を被った松が幹と枝を右から左に大きく張り出している。雪は下部の幹には正面に張着いている。しかし左に張り出した枝には上部に雪が積もっている。この作品では、わたしは空間が大きく上部になるほど空間が見る者から遠ざかるように、画面の奥の方に曲げられているのではないか、と感じた。そうすることで画面に奥行きが生じる。その変わり枝の手前に着いた雪は上部に積もったように見えることになる。探幽はこの奥行感、ある意味では遠近感を強調したかったのではなかろうか。
この仮説の上に立って円山応挙の作品を見ると、どのように見えるだろうか。左の松は下から見上げるような極端なワイド画面に見えるが、やはり上部が奥の方に極端に曲げられていると思える。空間を歪めることで奥行き感を出している。
それに比べて低い右側の松は、雪の重みに撓っているようにも見えるが、右側と向こう側に画面がゆがめられているとも思える。こうして右側に奥行き感が出ているのではないか。
右側の松の右に張り出した枝は雪の重みだけで枝が歪み、雪の着いた向きがずれたように見える。同じ松の先端は左側に雪が着いている。これは歪んではいない。
視点をずらしたり、それによって空間を大きく歪めることで、奥行感・遠近感を出すという仮説に、私は今のところ充分に納得している。風景については、実景の写生という概念はなかったと思うので、空間をゆがめたり、視点を自由に変えるということは特にこだわりというものはなかった時代である。意識的にこのような構図を追求したのではないとも思う。
以上は、あくまでも素人の思い着きである。どなたか教えてほしい。
本日は今のところ発熱の兆候はない。
3日の日に聴講を忘れてしまったオンラインの美術講座、本日は忘れずに聴くことが出来た。内容は「学んでから行く「桃山-天下人の100年」という東京国立博物館の特別展の解説を兼ねて「桃山美術と戦国時代」。
狩野永徳の「四季花鳥図襖」の「梅花禽鳥図」、「唐獅子図屏風」、長谷川等伯の「楓図壁貼付」、狩野山楽の「紅梅図襖」、「牡丹図襖」、狩野探幽の「雪中梅竹遊禽図襖」、雲谷等顔の「山水図屏風」、狩野元信の「四季花鳥図屏風」、岩佐又兵衛の「洛中洛外図屏風(舟木家本)」などを堪能した。
また織部焼など、私の好きな茶碗も解説があった。
実際に上野まで行きたいのであるが、今の体調では不安である。せめて図録だけでも手に入れたいと思うが、後日にするしかないようだ。