Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

イチョウの黄葉を期待

2020年11月18日 23時05分37秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日は横浜市内のイチョウ並木の黄葉を見に行くことになった。慶応大学のイチョウは毎年見に行っている。感染拡大状況であるが、昼間の東横線はさほど混雑はしていないと思われる。また大学の校内も人通りはほとんどないと判断している。親と妻と娘と一緒とのことである。
 美しいイチョウを期待しているが、果たして今年はどうなっているやら。風はないようなので黄落は見ることは難しいと思われる。
 そして、どこで昼食をするか、いろいろと悩んでいるがいいアイデアは浮かばない。


 新型コロナウィルスの感染症の拡大がどこまで続くのかは予測もつかない。政治主導のワクチン開発の急ぎすぎるテンポに危惧もある。具体的なタイムスケジュールも立てられない中で、「オリンピックを決行する」という決意だけが先行して政治主導でことが進む。元首相に「政治主導」という言葉がいつの間にか、「官僚を顎で使い、従わせる」だけになっている。
 「政治主導」というのは「さまざまな意見を十分に聞いて、最後は政治家が議論を踏まえて責任をとる」という意味合いで使ってもらいたいものである。
 日本の政治家の願望なのか、「俺は偉いんだ」の隠れ蓑になっているような昨今である。


パソコンの再設定

2020年11月18日 20時58分34秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩は少し唇の周りが腫れぼったく熱を帯びているように感じたので、熱を図ったら、平熱の上限に近い程度。本日も少し腫れぼったく感じたが、平熱の範囲内で低いくらいであった。

 来月12日の退職者会のささやかなイベントに必要な厚紙・フォトスタンド・写真などはそろえた。私の担当としては再来週に印刷・製本等である。早めに終わりそうなので、その作業が終われば、他の担当者の業務のお手伝いはしないといけないようだ。私の印刷・製本は手伝ってもらうので、お互い様である。

 デスクトップパソコンのカスタマイズはほぼ終了。ミニノートパソコンを使っていて不便だったことにミニノートには、フォントが二つ入っていない。楷書体と太いゴシック体である。他の楷書体と太いゴシック体のフォントに変更はできないことはないのだが、代替えのフォントは私としてはちょっと気に入らない。
 ソフトを入れると自動的にインストールされるフォントもいくつかあるが、昨日までに点検した結果、どのソフトにもそのフォントは入っていなかった。不思議である。
 あまりに細部にこだわると事務的につらくなってしまうので、ここらへんで断念するものは断念したほうがよさそうである。

 パソコンの再設定、これはいつもうんざりする。お金と労力と時間、何とかならないものか。


感染拡大

2020年11月18日 18時39分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 新型コロナウィルス感染症が拡大している中、またもや政府の対応は矛盾だらけ。旅行に行け、食事を楽しめ‥と、大手の旅行会社やチェーン店に厚く税金を使い、病院や介護職場等への手立ては講じることはしない。
 地方自治体が繁華街への出入りを規制しようとしている事態なのに、逆に事業を推進。

 後手が今の政府の得意技かと思っていたら、それ以上に逆風を吹かせている。火事の現場に水をかけるのではなく、大風が吹くような方策を推進している。

 経済を回すのが大切という前に、抑え込む手立てがまず間違っているとしか思えない。医療従事者への感謝はブルーインパルスを飛ばすことではなく、医療従事者の処遇をよくすることであり、医療機関への助成であり、今は職に就いていない医療従事者・介護従事者などが職場復帰できる条件整備であるはずだ。また検査体制の充実・保険適用、隔離施設の確保、やらなくてはならない施策で、いっそうの充実が求められているものは、素人の私が考えても膨大にある。

 いったん言い出したら、メンツにかけてもとに戻さない政治。これでは登山で天候が悪くなったのに引き返さずにわざわざ危険な雷雨の中に踏み込んで行くようなものである。政府がこれをすると政府関係者だけでなく、国民を不幸に落とし込むことであり、罪はもっと重い。

 自分でできる防御の徹底と、国民にお説教を垂れる前に、政府ができる施策を十分に実行してもらいたいものである。公助はここまで努力した、という実績が大切である。その信頼がないなかで、自助・共助と突き放されるわけにはいかない。

 今から75年前、政府は国民をあおるだけあおり、その挙句人的にも膨大な損失を続け、人の命を粗末に扱い、国土を荒廃させ、周辺諸国と諸国民に多大な被害を強い、そしてギブアップした。その後の国民に多大な飢えと無政府状態をもたらし、引揚者を放置した。
 こんな事態を避けるためには、政府への監視と施策の転換を求め、目を国民の生活に向けさせなくてはならない。「政権・政府にものいう国民」にならなくてはいけない。75年前と同じ轍を踏んではならない。