「弥勒」(宮田登、講談社学術文庫)の第4章「日本仏教と弥勒」を読み終えた。
「(弥勒信仰における上生信仰は)弥勒浄土に生まれたいという願望によってつくられているもので、阿弥陀浄土と比べた場合どちらかが優勢になってくれば、そのほうに吸収される傾向が強い。阿弥陀浄土のほうが優勢になってきており、弥勒浄土はだんだんとそのほうに吸収されてしまう‥。‥それで弥勒信仰もすべて消えたのかというと、そうではなく、別に弥勒下生という形で、弥勒信仰はさらに大きな展開をしてゆく‥。」
「日本の民間信仰の中には、この世を救ってくれる存在がいて、いつかは現れてくるに違いないと考えられていたのではなかろうか。‥世直し運動とか、あるいは弥勒を軸とした民衆運動というものが明示されるような時期が日本の社会の上で考えられるのではないかということである。具体的な時点はいつであるかというと、‥戦国時代の末期であろうと思われる。これは16世紀のはじめであり、とりわけ永生三年から五年にかけての時期であった。このことは歴史上の私年号として有名な事実である。私年号は、天皇が設定した公年号とは対立する存在であった。‥自分たちが自由に年号を設定して、それを中心に社会秩序を形成するということは、民衆のひとつの世界観の表明といえる。これが「弥勒の年」と考えられているのが特徴であった。地域的に限定があって、ほぼ関東を中心として東日本の一部に限られているのである。」
「東日本に巨大な信仰圏をもつ鹿島神社が、その護符に弥勒の年号を使っていた‥。主として鹿島神宮寺を中心とした神仏習合の結果と考えられている。鹿島神人の他に神宮寺の僧が関係していたらしいことも推察されている。」
「鹿島信仰は戦国時代を一つの景気として急速に大きな展開を示したのであった。そこで問題となるのは、このような時期にあたっても、中国・朝鮮で出現してきたような、弥勒教匪の反乱運動という形態がとられていないことである。これが日本の一つの特徴なのであった。」
「これが日本の一つの特徴」と結論されてしまうのが残念である。「なぜ」については最後までこだわって読み進めたい。
しかし大和朝廷の東の果てのもうひとつの別の世界との境界にある鹿島にある神に現れた私年号というのは、とても興味を惹く指摘である。次の第5章は「鹿島信仰と弥勒」となっている。
天皇制に包摂されない時間軸を獲得しようとした信仰が、やまと朝廷の東端であった鹿島の地、東山道と東海道という陸路と海路の交わる交通の要衝の地、かつての蝦夷の地を望む地に芽生えたというのは、どういうことなのだろうか。
「反乱運動という形態」とはならない「日本のひとつの特徴」と一概に結論に飛躍してしまうことに飛躍があるように思ってしまう。