Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

明日は退職者会のイベント

2023年09月25日 22時24分08秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 明日の午後は退職者会のイベント。市の施設の見学会。昼前には家を出る予定。果たして長ズボンがいいのか、半ズボンでいいのか。気分は半ズボンなのだが。
 多分終了後は、いつものとおり一杯会。どのくらいの人数が参加することになるか、また場所を何処にするか、まったくわからない。施設の周囲にはそれなりの人数が入ることのできる居酒屋、それも16時前に回転しているところはないと思われる。
 いつものとおり、鼻の効く名人の後ろについて行くことが肝要。

 明後日も出かける予定があるので、控えめに飲み会に参加したい、という決意は持っているが‥。明日になって見ないとわからない。


三か月ぶりに長ズボン

2023年09月25日 20時10分29秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

   

 久しぶりに長ズボン(Gパン)を履いて外出した。ほぼ3か月ぶりであろうか。ほとんどの人はもう既に半ズボンをやめ、長ズボンになっている。半ズボンというか脹脛が隠れる程度のズボンであるが、昨日などは何となく恥ずかしい気分であった。
 しかしやはり暑く感じた。明日は最高気温が再び上昇して29℃、しばらくは30℃を再び超す気温の予報になっている。暑がりの私は、27℃を下回るまでは半ズボンでいたい。
 本日は昼間はスッキリとした秋の雲。横浜駅から見た空はビルが進出して狭苦しく見えるが、それでも雲がそして今週金曜日の29日が仲秋の名月とのことである。しかし先ほど帰宅途中で見た月齢10の月も十分に美しかった。夕方まだ明るいうちの月もいいものである。

 


テート美術館展から その3の補足

2023年09月25日 12時24分17秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等

 今朝になってから、昨晩取り上げたジェイコブ・モーアの《大洪水》を見ながら、旧約聖書の「ノアの洪水」の部分第6章~10章を読み返した。同時に再度図録を拡大鏡で見直した。
 聖書では箱舟に乗ったのは、ノアと妻、3人の子とその妻の計8人となっている。
 拡大鏡で図録を見ると確かに舟の上にいる5人のほかに、右側と艫に半身だけの人物がいる。また舟の先に浮かんでいるのも一人の人物に見えないことは無い。そうすると創世記の記述のとおりの8人になる。
 ここまでは作品が創世記の記述にのっとっていることはわかる。しかし舟の上の5人も項垂れ、疲労困憊、絶望の極みのような姿勢である。半身海の中の2人、浮かんでいる1人にも世紀は感じられない。
 多くの人は、アララト山の頂上に着地した箱舟から鳩を放ち、オリーブの枝を持ち帰った鳩をさらに7日後に放って、収容した動物とともにノアの一家は舟を離れる。こうして神はノアと契約を結ぶ。アダムとイヴに述べたことと同じように「産めよ、増えよ、地に満ちよ。‥雲の中にわたしの虹を置く。これは私と大地の間に立てた契約のしるしとなる。‥」
 この雲の中の虹がこの作品の中心の太陽によって生ずる直前を描いたのだろうか。それにしては登場人物は死に体である。希望を感じることは無い。また収容し放たれた動物などは省略されたにしろ、情景はどう見ても難破船と遭難者である。洪水や暴風や津波という自然の災禍をまともにくらった瀕死の人間が描かれているとしか思えない。
 私には、さまざまな自然の災禍に打ちのめされ、瀕死の体験を経つつも、生きつづけざるを得ない人間の弱さもしぶとさも感じる。絶対神と自然崇拝の間を揺れ動く神の概念、言葉と思想を得て人間が生んだ神という概念に逆に翻弄されてしまう矛盾、そんなことを作者は気がついているのではないか。
 あたかも1787年の作、2年後はフランス革命の年である。神の呪縛が融けていく時代が始まっている。