冷たい北風が強くなり、寒くなってきた。瞬間最大風速が19時過ぎの18.4メートルの北風となっている。ようやく冬の気温と風、そして空の星となったのではないか。
本日は早めに夜のウォーキングをしてきた。近くのドラッグストアに買い物に行くというので妻と一緒に出掛けた。体が温まる程度に歩きたかったけれど、それもかなわず北風に震えながら往復3500歩程を歩いた。
「北風」「寒風」という季語の句を探していたら、秋元不死男に以下の句があるということを知った。
★軍港へ貨車の影ゆく犬ふぐり
★獄を出て触れし枯木と聖き妻
★北風沁む獄出て泪片目より
★寒燈の街にわが影獄を出づ
たまたまネットで次のような評を見つけたのである。
「昭和十八年二月十日夜、迎えに来た妻とわが家へ帰る時の「獄を出て触れし枯木と聖き妻」「北風沁む獄出て泪片目より」「寒燈の街にわが影獄を出づ」の句にもあるように、京大俳句事件で新興俳句の弾圧に連座し、二年間、獄中生活を送った身です。掲句の鉄路の音に、不吉で不条理なものを感じつつ、しかしそれは音の無い影の移動に変換されて、作者は、青紫の小さな花一輪に、ささやかな春を見い出しています。(小笠原高志)」
この句、今から77年前の実体験に基づく句である。秋元不死男の句集は残念ながら私の手元にはない。
★獄凍てぬ妻きてわれに礼をなす
このような句もあった。こちらはもっとせつない。獄中に面会に来た妻が作者に向って礼をしたというのだ。これは決別の挨拶ではない。多分獄吏の前で口には出せない「わたしは大丈夫」という激励の仕種なのだと理解できる。夫婦の間の暗黙の意思疎通である。
戦前のことゆえ(今も変わらないかもしれないが)、女性にとっては夫が特高のつかまるような事態のなか、生きて行くことはとても厳しい状況であったはずだ。
妻は夫が新しい俳句の可能性を求め、ひたすら俳句を作っていただけであること、当時の社会の不条理を俳句に詠みこもうとはしたが政治活動とは無縁であったことを充分承知をしている。その上で当時の不条理で過酷な状況に耐えているのである。
たった17音の短い詩形のなかで、これらのことを表現しきれている。それは「われに礼をなす」という8音にこめられている。