「古墳と埴輪」(和田晴吾、岩波新書)を読み終えた。本日読んだのは第7章「日中葬制の比較と伝播経路」と「おわりに」。
長くなってしまうので、結論部分についてだけ覚書として引用してみる。
「(六世紀後葉に)王権全域では群衆墳とよばせる円墳や横穴群がつくられていたが、前方後円墳は王権下全域でほぼ同時期に消滅する。それとともに「天鳥船信仰」も衰退し、埴輪も見られなくなる。古墳から他界表現が無くなったことで墓は単なる遺体や遺骨を葬った墓標のある場所に近づいた。代わって仏教文化をはじめとする新しい文化や社会制度が積極的に取り入れられ、国が定めた法制的原理が集団関係を律する社会が動き出した。・・・・「古墳から寺院へ」時代を反映した巨大な構造物が古墳から寺院へと変わっただけでなく、人びとの他界観も仏教的他界観へと変わった。」(第7章)
「「古墳の儀礼」は弥生時代に水稲農耕文化の源流である中国江南の新石器時代の船棺葬をはじめ、経由地の朝鮮半島南部で加わった要素からなる基層の上に、黄河や長江の中流域の春秋末・戦国初期~秦・前漢にかけてての要素、および東晋・南北朝期の要素、さらに朝鮮半島諸国で変容した要素などが絡み合いながら列島に伝わり、列島内でも九州・機内など地域差をもちながら独自に発展した。古墳の儀礼は基本的に文字を持たない古墳時代社会でもそれなりの死生観・他界観のもとで独自の祖先崇拝が育まれた。古墳の儀礼はヤマト王権全域において、長期にわたり繰りかえし行われ、当時の社会の人・もの・情報の流通を促す最大の原動力となったのであり、古墳づくりは国づくりそのものでもあった。」(おわりに)