秘 密
(前略)
姿を見なくなったと思ったら、
黙って、ある日、世を去っていた。
こちら側は暗いが、向こう側は明るい。
闇の中にではない。光の中に、
みんな姿を消す(のかもしれない)。
糸くずみたいな僅かな記憶だけ、後にのこして。
イツカ、向コウデ
(前略)
まっすぐに生きるべきだと、思っていた。
間違っていた。ひとは曲がった木のように生きる。
きみは、そのことに気づいていたか?
サヨウナラ、友ヨ、イツカ、向コウデ会オウ。
三匹の死んだ猫
(前略)
生けるものがこの世に遺せる
最後のものは、いまわの際まで生き切るという
そのプライドなのではないか。
雨を聴きながら、夜、この詩を認めて、
今日、ひとが、プライドを失わずに、
死んでゆくことの難しさについて考えている。
魂というものがあるなら
(前略)
きみはわらって、還ってゆくように逝った。
正しかったか、間違いだったか、
それが、人生の秤だとは思わない。
一生を費い切って、きみは後悔しなかった。
そしてこの世には、何も遺さなかった。
以上4編の詩からいづれも最終連を引用してみた。人の死や、猫の死を詠んでいるが、それは作者である長田弘の「死」に対する願望である。そして「こんな風に死にたい」、とは「こんな風に生きたい」との表明でもある。両者は同一である。
ネットで検索していたら、胆管がんで75歳で死去する前日まで執筆をしていたとのこと。まさに「三匹の死んだ猫」の最終連のようにきっと「いまわの際まで生き切」ったのであろうか。
私は「曲がった木のように」右往左往しながらかもしれないが、「この世には、何も遺さず」「プライドを失わず」「糸くずみたいな僅かな記憶だけを遺して」この世からさよならをしたいと思っている。はたしてどうなることやら。人は誰もが自分の死をその直前まで知らないのだ。
未練もある。
言い切りもある。
やはり
人間は死ぬまで迷っているんだね‼
― 長田弘・考 ―
「人間は死ぬまで迷っている」はい、迷い続けて足を踏み外して奈落の底に落ちかけている私です。