昨日読み終わった本は、「悪魔の話」(池内紀、講談社学術文庫)。「8.不思議博物館」以降の「9.流刑の神々」、「10.気の好い悪魔たち」、「11.魔除け」、「12.いたるところに悪魔がいる」、「補遺 ニーチェの妹」を読んで読了。
「並外れたもの、特殊なもの、想像を絶したもの、およそ人間ばなれした壮大なもの、それらと対面するたびに人々は悪魔を借りて敬意を表してきたわけだ。無名の名匠をそんな風に神格化した。世に知られた名作や逸品には、しばしば悪魔が関与している。芸術伝説、また芸術家伝説には悪魔の影がちらついている。無類に美しいものが世にあらわれた際のエピソード、あるいは一人の芸術家が驚くべき手腕を発揮するにあたっての逸話。きまって最後にたのしいオチがつくのもぴってり同じ。」(10.気の好い悪魔たち)
「神話学者のフリードリヒ・フォン・デア・ライエンによると、世界中のいたるところで何世紀にもわたって存続した一つの信仰があり、そもそも、いかなる建造物であれ、それを建てることは神に対する挑戦であって、そのため供犠によって神をなだめなければならない。「大建造物が神への冒涜とみなされてきたことは、ユダヤのバベルの塔の物語が示しているとおりである。それは邪悪な力だけが完成させることができるものなのである」。こうした建物を建てるには、不正や裏切り、詐欺行為などがつきものとされ、だからこそ「いけにえ」が必要だった。」(10.気の好い悪魔たち)
「12.いたるところに悪魔がいる」では、16世紀ドイツのゴシック建築に掘られた悪魔の数々が紹介されている。そして私も知っているグリューネヴァルトの描いた「キリスト磔刑図」についても「凄惨な腐乱する屍としてのキリストであって、通常、祭壇画におなじみの美しい聖性とは縁遠い、凶暴な謎のような絵」と記載されている。
「執拗かつ残酷に描き出す画家の眼は、ひたすら闇を見つめていたかのようだ。画面のおおかたを占めて深々とひろがる闇、そこには息を殺して無数の「闇の王たち」がひそんでいる」。
悪魔の話から、人間の闇、人の世の闇を見つめる芸術家の眼に視点が進行していく。
さらに「ゴヤの辛辣な目」という段に至る。ゴヤの描いたカルロス四世の王妃「マリーア・ルイーサ像」について「無残な醜女としてわが身が描かれていなることに気づかなかったはずがない。とすればそれはやはり奇妙な女というべきかもしれず、より正確には、偉大な女の肖像というのがもっともふさわしいにちがいない」と記している。
「(ゴヤの描く)どの悪霊も、ことさら想をこらしてひねり出すまでもなかった。夢のイメージ、あるいは悪夢の形象であり、中世キリスト教会が悪魔的所産としてその表象を禁じたものだった。数世紀このかた人々の想像力から駆逐されてきたものが、近代のトバ口にあってゴヤという、いかにも予言的な名をかりてほとばしり出た。」
ゴヤからロシアのコーゴリへと論は移る。
「ロシアの大地は、皇帝の名のもとに配置された一群の警察長官と、軍隊と、官僚によって、つまりは金モールつきの制服を着こんだ肩書だらけの悪党たちによって統轄されていた。若いゴーゴリはそれをウクライナ風の笑いによって軽妙にわていとばした。悪魔と警察長官とか一見してわからない世界の上には陽気な哄笑が響いている。ゴーゴリは晩年ロシア産悪霊たちみちみち「死せる魂」を書き、ようやく完成したその「第二部」を自らの手で焼いた。‥食を絶ち、自分の中の悪魔を追い払おうとしたのである。」
「補遺 ニーチェの妹」で、時代は現代のヒトラーに移る。ニーチェの妹の編によって大きく捻じ曲げられたというニーチェの遺稿「権力への意志」を手放さなかったヒトラー。
「(ヒトラーが)少年として過ごした時期に、一つの共通項といったものが浮かんでくる。過酷な場賞金と古今未曽有のインフレで、国の存続さえ危ぶまれた歳月、その間に吹きこまれた悪魔=ユダヤ人への恐怖、成長してのち、ナチス組織の有能なテクノクラートして昇進を競うなかで、尖鋭化していく過程、ナチスはロシアへの侵略とユダヤ人絶滅の正当化のためにレトリックを多用したが、若手の実務官僚たちはそれを巧みに消化して、みずからレトリックの実践者となっていった。心理的にも社会的にも微妙な問題を含んでおり、どのように論じてもなお解けない余地が残る。」
悪魔に身を売ったのは、ニーチェの妹か、ヒトラーか、ナチズムを支えたテクノクラート・実務官僚たちか。現代の日本もにらみながら、考えなくてはならなくなった。かれらは「人の闇」「人の世の闇」をどのように見ているのだろうか。