・「新しい日本、万歳!」-廃藩置県を考える 三谷 博
「(藩の廃止=廃藩置県に対し)どうして旧武士たちはこんなに従順だったのだろうか。‥明治史の内包した負の側面そのものである。維新という世界的規模の革命を研究するに、これを避けて通れない。今後、地域に即した具体的な比較研究が必要と思われる。」
「江戸時代の日本は連邦国家であったが、その構成国は世界史上に稀な数に登った。徳川将軍家が公認していた大名家は幕末に260あまり存在した。維新と同時代の世界を見渡すと、そこにはいくつも連邦国家があった。37の「ステイト」からなっていた「アメリカ合衆国」、イギリスは4つの「カントリー」の「連合王国」、オーストリア=ハンガリー帝国、デンマーク、オランダも連邦国家、中央集権のフランスはヨーロッパではむしろ少数派だった。廃藩置県の年、オーストリアを除くドイツ語諸国が統合されたが、それは盟主のプロイセンをはじめ26個の州から構成された。‥近世日本の構成国の数は突出するもので、それがドイツと逆に完全に消滅させられた。なぜ極端から極端に変化したの。」
「廃藩置県はなぜ行われたのか、仮説を述べてみたい。‥戊辰内乱の終結後、半平の多くは解兵された。しかし逆に増強された藩兵もあった。(薩・長・土だけでなく)和歌山や佐賀の軍団も新装備の導入や新戦術の学習に力をいれていた。土佐の軍事指導者によれば、戊辰に次ぐ内乱、例えば薩摩と長州の対立を待望し、東京政府の主導権を握ることだったという。東京政府からすれば、危険極まりない。西郷は前年末、地方勢力が東京政府を振り回すことが現下の大問題として、地方の精兵の献上によりその弊を解消しようとした。‥筆者の見るところ、三藩献兵の目的は危険な軍隊を天皇の股肱とし、地方反乱の芽を摘むことだった。藩の行政機構から軍隊を引き離すこともそれに含まれる。その術は見事に成功した。」
「廃藩置県を含め明治最初の10年は、‥暴力への誘惑に満ちた時代でもあった。王政復古以来の達成を損ないかねない極めて不安定な時代だったのである。」
・ドイツ史における地域のポテンシャル 星乃治彦
「1871年、小邦分立していたドイツが国民国家として統一を果たした、とされる。「地域」の問題は依然として頭痛の種であった。廃藩置県を断行した日本とは対照的に、ドイツでは1871年以降もLand(邦)を残していた。時のドイツ皇帝ヴィルヘルム一世は、明治維新に着目し、特に廃藩置県については仰天していた。」
「「地域」史は単に「中央」に対する劣位の歴史ではない。ドイツ史の場合は、「中央」が不明瞭である文、歴史的経緯の中で地域史が入り込んで、ドイツ史を構成している。国民史としての「ドイツ」史は、政治的力学を反映させながら、複数の「ドイツ史」を織り込む形で作られていったと考えられる‥」
・カミユの「ペスト」をめぐって 渡辺帷央
「「演説」と「勧告」を比較してみよう。全体主義体制を擬人化した支配者ペストの演説と、それに対抗する医師たち(レジスタンス)への激励。このように対比させれば、「勧告」と「演説」はそれぞれ正義と悪が描かれたふたつサクソンのように読める‥。だが、二つとも、市民に対して「職務を果たせ」「順応せよ」と要求している展では同じことを書いている点に注意する必要がある。カミユはこの二つ作品を並べることで、何を伝えようとしているのだろうか。」
「一致団結を求める呼びかけは、合意の強要、不一致や不和の隠蔽、他者の排除といった危険を孕んでいる。強制力のないはずの呼びかけが強制力をもってしまうこのジレンマを「勧告」と「演説」は描いていると言えよう。」
「コロナ禍のもとで、自宅待機、公共空間での行動制限、各種施設のお異議用時間短縮など、「自主的な」協力がさまざまな形で要請されている。日本政府をはじめ、各国政府のコロナ禍対策が後手に回り、さまざまな不備が批判されているにもかかわらず、自粛を呼びかける空はほとんど有無を言わさぬものがある。誠意ある呼びかけとは何なのか、任手「ペスト」や「勧告」を読みながら考えることができるのではないだろうか。」
・安らかな死 長谷川櫂
「人間は生きるという言葉、死ぬという言葉を知ったとたん、生とは何か、死とは何か、考えはじめる。そうなりと人間が安らかに死ねる道はおそらく一つしか残されていないだろう。人生が長かろうが、短かろうが、生と死について考えたぬいたあげく、安らかな死などどこにもないという深い諦念の中で最期を迎える。これが人間らしい唯一の死に方ではないか。」
15編のうち8編を読んで、今月号は終了。