埼玉県議会の自・公の「虐待禁止条例改正案」なるとんでもないものについて、提出した会派が取り下げを表明したという。しかし「説明に不十分さがあり、不安を与えたことを猛省している」ものの、内容や手続きについては「瑕疵は無かったものと思っている」と発言したと報じられている。そして廃案ではないというところがあまりに未練がましい。
この説明を聞いて、私は怒りを覚えた。「瑕疵は無かった」ということと、「言葉足らずにより不安と心配の声が広がり」ということを並べてみれば、「誤解」した我々の方が悪いとも取れる。
この「誤解を招いたことをお詫びしたい」というのは国会議員、大臣の「お詫び」で定着してしまった。誤解した国民が悪いと、いわれてそれを垂れ流すマスコミもひどいものである。こんな発言に食らいつかなくて、マスコミの名がすたるというもの。
今回も、内容や言いわけは突っ込みどころ満載だが、多くの批判で触れられているので省略しよう。
私の感想は以下のとおり。
昔、私が学生の頃、政府や大学側の対応に異議申し立てをしたし、また政治課題にも関心を持って学生向けのビラも多く作成した。
そのときの時代の雰囲気として、学生の主張に多くの場合保守派のマスコミや教授連中や政党から「生活感がない」「理念ばかりが先行して、それで世の中を裁断してしまっている」というものがあった。
その批判の当否や今は論じないが、最近の地方・国の議員を見聞きするにつけ、実につたなく、現実にはとても通用しない「理念」ならざる理念で、政治に携わろうとし、肝心の市民には向きあっていない。向きあおうとする姿勢を見せない。時代に通用しない理念で市民に説教をしているとしか思えない。
カルト教団化した保守系の政治家・議員、行政府の長へ、50年以上前の私たちに投げかけられた言葉を、今度は逆に私たちが投げかけなければならない時代になっている。政治家の箍が外れてしまっている。外した象徴的人間はだれか、言わずもがなであろう。そしてとりわけ大切なのは、彼を支えた体制の問題点は何であったか、リベラル派にはその解明が求められている。
今度の「虐待禁止条例」は「古い家族理念に縛られた家族・家庭像の押し付け」といわれる。実際に子育てで奮闘し、苦労している親の世代から総スカンをくらった。国力の顕著な衰退、貧富の差の拡大、高齢化、地域社会の崩壊、過疎化という時代に処方箋が描けない保守系政治家の無力。現実感のない空論に等しい貧弱な「政治理念」「政治的理想」にしがみついている保守政治家の堕落が浮き彫りになっている。
私は50年以上経って、世の中が進歩どころかこんなにも後退していることにあきれ果てている。同時にそれを乗り越えられなかったリベラル派の政治力量、理念にも50年前と同様に絶望している。その絶望は当然私自身にも向けられてもいるのだが、今の私の能力では解決の糸口をつかめていない。
半世紀以上、私はできるだけ生活者としての立場から為政者に言い続けてきた。自分が彼らを乗り越えられなかった半世紀という月日は、とても情けないとしか言えない。それが重く感じる昨今である。
生活実感に真摯に向きあい、それを基に政治理念を積み上げて時代の課題を見極める。そんな姿勢が政治家にとっての当たり前になってほしいのだが・・・。墓場まで持ち込みたくはないが、そんな思いはかなえられそうもないほど、世界は厳しい事態になっている。