引続き覚書としていくつか。
・追剥ぎとハクビシンの山月記 影浦 峡
・僕らの孤独の住所は日本 MOMENT JOON
「‥僕らの話は日本には届かないという孤独だった。そこから、僕の視野は急激に変わり始めた。それまでは自分の孤独で精一杯で見えなかった人々の孤独が見えてきた。彼女の孤独、ボランティアであった外国ルーツの子どもの孤独、日本語が出来ない人の孤独、本当の名前を隠して生きている人の孤独、日本に住んでいるのに「いつ国に帰るの?」と聞かれる人の孤独。孤独な人間同士で一緒に鳴くことも、怒ることも、頑張りましょうとお互いを応援することも出来たけど、そのたびに気づいたのは「これじゃ足りない」ということだった。僕らの孤独の住所は日本だ。日本に、この孤独を見てもらいたい。」
「日本で生まれたけど日本で住所が持てない我らの孤独を、日本の皆に伝えなければならない。」
・何を今さら『方丈記』、されと今こそ『方丈記私記』(上) 鹿子裕文
・84歳わたしの「道の駅」 沼野正子
・南の島のウナギ釣る旧石器人 藤田祐樹
・汚れた土のゆくえ 赤坂憲雄
「この列島は本格的に災害多発の時代に入ったようですね。東日本大震災のあとに、「災後」という言葉が「戦後」との対比において使われましたが、すでに忘れ去られています。私は「災間」という言葉‥教えられてから、この言葉のもつ思想的な喚起力に眼を凝らしてきました。」
「わたしたちはいま、災間の時代を生かされています。‥確実に近い将来起こるはずの大きな災害までのほんのつかの間の猶予期間を生かされている、ということです。」
「原子力発電所のカタストロフィー的な事故ですら、もはやだれも、二度と起こらないとは言明しなくなりました。それにもかかわらず、あらゆる合理的な根拠が失われても、この国は惚けたように原発を稼働させつづけています。グロテスクな現実ですね。」
「‥なかったことにしてやり過ごすことを、わたしたちは選んでいます。問うことを宙吊りにして、言葉そのものを放棄したかのように。私たちを取り巻く現実は、まさしく自発的隷従という言葉がはまり過ぎていて、怖いほどです。」
・浦島子の異界往還 三浦佑之
「‥島子の場合は、その時間の観念というきわめてモダンなテーマとともに、もう一つ、この誕生という家族や家の持続を究極の目的とした男女の出会いや結婚ではない、享楽的な男女の邂逅、官能的な閨房での秘め事を描くという要素をもっていた。当然それは、漢文を自在に読みこなすことのできる知識層、貴族や高級官僚や僧侶などが密かに詠んで楽しむ文学として書かれたものであった。そして言うまでもないが、その発想は中国の神仙思想に基づいた神仙伝奇小説と呼ばれる作品に影響された生まれたものであり、土地に根ざした民間伝承を採録したというようなものではなかったのである。」
・夢で聴く人、早坂文雄 片山杜秀
・悩める漱石 長谷川櫂
「円覚寺は‥北条時宗が南宋から招いた無学祖元が開いた‥。二度の元寇の戦死者たちをモンゴル、日本の区別なく弔うためだった。明治の国家主義の時代、日本に命を捧げた兵士の慰霊のために建てられた靖国神社と比べると、七百年前の日本人の慈悲の精神に驚かされる。」
「子規が明治の国家主義の優等生として生きたのにたいして、漱石は国家主義からの自覚的な脱落者となった。」
「病気のために結婚はしなかったが、母と妹という身近な二人の女性に愛されているという自覚が、どれほど子規に自信を与えたか。‥いわば日本古来の母権社会に子規は生きていた。」
「漱石は子規とは反対に母のぬくもりを知らずに育った。‥しかし漱石を明治の脱落者にした決定的な要因はロンドン留学だった。‥神経衰弱になって文部省から帰国を命じられる。」
「明治の国家主義からの脱落が漱石を小説家にし、世間に距離を置いて斜に構える苦沙弥先生の位置に立たせた。漱石は小説家として一歩踏み出したときから、明治という時代を引き受けていたのである。時代を引き受けるとは同時代の日本人の運命を自分の問題としたということである。だからこそ偉大な作家なのだ。」
「菫程な小さき人に生まれたし 漱石 明治三十九年(1906年)、日露戦争に翌年の作。礎石の心の奥に鬱々と眠る夢を取り出したような句である。小さな菫の花とは明治の国家主義から外れた漱石のささやかな理想だった。」
以上15編の内13編を読み終えた。