「キリストと性 西洋美術の想像力と多様性」(岡田温司、岩波新書)を読み終わった。
「旧約聖書の神の「母性」の側面に、あまり光が充てられてこなかったように思われる。ユダヤ教であれキリスト教であれ、本来は性やジェンダーに関してかなり寛容な部分もあったのではないだろうか。・・・・メタファーこそが、わたしたちの詩的で美的で宗教的でもあるような感性と想像力を豊かに培ってきた・・。」(第6章)
「わたしたちが生きていくうえで求められているのは、自分とは異なったり反対だったりするような、さまざまな立場の他者の存在をいかに想像し尊重できるか、ということである。パウロはわたしたちが自己のアイデンティティや帰属意識に固執しようとするまりに、ややもすると他者に対して不寛容になることをそれとなく戒めている・・。」(おわりに)
キリスト教の視点から美術に表された、あるいはその美術の背景の民衆の信仰の有り様から、父性・母性、そして様々な性の有り様について解き起こしている。その目的は本書で達成しているかのように思われる。岡田温司氏の著作は「マグダラのマリア」(中公新書)に続いて2冊目。
しかし私の視点では、その美術に表れたさまざまな性の有り様は、キリスト教が覆い被さっているキリスト教以前の古代の信仰や性の有り様を匂わせている。人々の生きざまが、教義ととして覆い被さったものから滲み出たり、吹き出たりしたものという視点を手放したくはない。建て前や公式の教義に隠れて、男女のさまざまな形の性の有り様は、伏流のように隠された形で脈々と続いている。
単純化して言ってしまえば、キリスト教に限らず宗教の教義という軛(くびき)が弱まっている現在、徐々に明るみに出てきているのではないか。宗教の側からの反動もまた強まっている時代でもある。
そんな私の時代認識を確認した本書であった。