本日はランチタイムに「この道」の「野の末」を読み終わった。作者の不思議な感覚にも戸惑いを感じながら、無理とは解っていながらそれに同意しようと試みながらも、どこか異質なものをながめるように読み進めた。前提は同意できるのだが、突如の飛躍と結論に戸惑うこと仕切りである。
「夜中の病院の寝静まった廊下から、人の呻く声が伝わってくる。痛みに苦しんでいるようでもない。‥自身の声を聞くことによって、宙へ浮きかけた心身をどうにか空間の中心につなぎとめようとしているらしい。‥壮健な人でも思いあたる節があるのではないか。人は夜々の眠りの中で生死の境に入るのを、覚めては知らずにいる、と言った古人もあったようだ。空間の中心にあると身体が感じていなければ、おそらく眠れない。時間の流れとともにあるのでなければ、眠りは安らかではない。眠りの深さがきわまると、時間も空間もなく、どこにも中心のない虚空へ投げ出され、寄る辺のなさに、呻くか喘ぐか知れないが、身は悶える。若ければ素早く眠りの浅瀬に逃げても難もなく安眠を続けるが、年寄りは寝覚めする。悶えるには体力が要る。‥年寄りはすべてにわたって脆くなっているので、あまり深く眠るものではない、と年甲斐も無いことをしたように呆れて、浅い平らかな眠りを待つ。翌朝、表をのぞけば晴れているが、地面が黒く濡れていて、雨に叩き落された濡れ落葉が一面、地に貼りついている。」(野の末)
私にとってはこの最後の朝の雨の情景があまりに唐突だったので、立ち止まり、数ページもどり、そして再読したがやはりこの唐突な描写にたじろいだ。
作者にとって、このように唐突な自然現象というのが、どのように移っているのだろうか。「雨に叩き落された濡れ落ち葉が一面、地に貼りついている」のだからそれなりに激しい風を伴ったり、強い雨だったはずだ。「浅い平らかな眠り」ではなく「深い」眠りであり、「全身がぐったりしている」はずなのに‥と私の思考は止まってしまう。
作者自身の思考の回路と、自然の現象とが齟齬をきたしながら、着かず離れずに、水の底から空気が浮き上がるように自然が文章の間に浮かび上がってくる。これがそもそも「病」の現象として記しているのだろうか。
しかしながら、江戸時代の天変地異から、戦争体験、東日本大震災、そして親族の死にまつわる体験、自身の病気体験と自在に行き来しながら、死とじっくりと向き合う。これにはとても惹かれる。
「戦争が露出しつつ」ある現在、是非とも読み進めたい魅力を私は感じている。
氏も寝付きは速そうですが、寝ざめはいかがですか?
私の寝覚めはかなり暗いです。恐怖感があります。ううむむむです。
目覚めはとてもすっきり。しかし最近は9時間も寝てしまうことがあります。
これが年取った人間の眠りなのかな、とあきらめています。
最近は右膝の周りの筋肉が硬直して、朝はつらいときが多くなりました。