ブラームスのヴァイオリン協奏曲を聴いている。第1楽章のゆったりした第1主題は、ファゴットとクラリネット、ヴィオラとチェロの前半8小節、そしてオーボエによる後半8小節が、気分を落ち着かせてくれる。そしてすぐそれに続く第16小節からの全楽器による強奏で、気分が少しざわつき、41小節以降ゆったりとした気分に戻る。
この繰り返しの中で90小節でソロヴァイオリンが、木管の第1主題を背景にパッセージで登場する。
第2主題はようやく200小節を過ぎてから独奏ヴァイオリンによって静かに提示される。
私はこの第1主題、第2主題ともに好みである。人は甘過ぎる旋律、映画音楽のようだ、という人もいるが、そのようにはうけとれない。甘い音楽で終始するならば、この楽章の展開部以降の地の底に沈み込んでいくような下降と、息を飲むような上昇の音階の緊張感あふれる進行は説明ができない。第1楽章はベートーヴェン風に四つの音のフォルテで終了する。
第2楽章は、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲の第2楽章を彷彿とさせるように美しい。木管とホルンによる進行が、独奏ヴァイオリンに引き継がれる所は、聴いている私にも強い緊張感をもたらす。
ブラームスは吉田秀和が指摘するように、ベートーヴェンのヴァイオリン協奏曲が頭から離れなかった、と思う。否それどころか渦巻いていたはずである。
この第2楽章の末尾に至るまで緊張感が続く。それはブラームス特有の3連符、5連符、6連符などの多用と併用による不安定な音の細分化によってもたらされているとも言える。
第2楽章から第3楽章への移行と、第3楽章のそのものはベートーヴェンの劇的効果に軍配は上がるかもしれない。しかしブラームス特有のハンガリー風の曲を配置したことに並々ならぬブラームスのこの曲に対する思い入れを感じている。
第3楽章の後半までくると、十分にブラームスの世界を堪能した、という気分と、すぐにでももう一度聴きなくなる衝動に駆られる。
残念ながら好きなブラームスのヴァイオリン協奏曲なのに、CDは1枚しか持っていない。シュロモ・ミンツのヴァイオリン、クラウディオ・アバド指揮のベルリン・フィルの組み合わせである。1987年の録音、翌年には日本で発売されている。
実はこの曲は1878年ブラームスが47歳の時に作られた。作曲に際してのヨアヒムとのやり取りは有名である。
それには触れないが、私が昔この曲の作られた年を聞いてびっくりしたのは、それが明治11年にあたるということ。「近代国家」としての歩みを日本が開始したばかり、前年に西南の役があり、大久保利通が暗殺された年である。自由民権運動が胎動を開始し、フェノロサが来日した年でもある。
日本の近代が、東アジアでの覇権・植民地主義の道を歩み、軍事国家へと変身するか、それ以外の道を模索するのか、大きな分岐点であった時期である。残念ながら国粋主義の道へと大きく舵が切られてしまい、日清戦争へと向かってしまう。そんなことを学生の頃に気が付いた。
ブラームスが日本の近代国家の産声を上げた時に作曲活動に入ったということを知り、以来明治維新とブラームスは私の頭の中でパラレルな関係におさまっている。これが私のブラームス体験の側面でもある。むろん、日本の近代国家のあゆみと、ブラームスの作曲活動には何の関連もないことは承知をしている。
決して雨の日には似つかわしくない曲かもしれないが、聴きたくなる時は天候を選ばない。