Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

まだまだ続く…

2010年04月13日 12時47分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「仕事」の切羽詰まった状態もここまでくると…唖然かつ諦め。寝たのが今朝4時、睡眠は2時間半。大量のエクセルデータを、他の活字のデータと見比べながらひたすら処理し続けた。
 9割終了。だが本日の夜やり終える気力が残っているか、心配だ。できれば本日22時までに完了したいが…。
 50歳になる直前までは、2時間半の睡眠なら寝ずに起きていた方が、楽だった。50の声を聞いてからは1時間でも寝たいと思うようになった。ただし深い睡眠は来ない。今朝も2時間半の間に何回も目を開けた。5回くらいとも思うが、もっと少ないのかもしれない。
 そして体が随分緊張していた。寝汗は無かったが、ベッドの上で幾度も寝返りをし、上半身をおこしかけた。
 6時半、力を振り絞って起床、あと一週間は続く。


またもや土曜日曜と連続出勤

2010年04月11日 13時35分50秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 毎年のこととはいえ、年々身体的にはきつくなる。
 5年前は4月は3日の休日出勤で済んだがゴールデンウイーク中毎日出勤、結局代休4日の内3日分はどこかに消えた。
 4年前、3年前もほぼ同じパターン。一昨年、去年は幸い平日の超勤と1日の土曜出勤だけですんだが、今年は残念ながらまたまた…。せめて連休中の出勤がないよう片付くことを祈るばかりだ。
 仕事があるということはありがたいことではある。働きがいもある。贅沢だ、という指摘は甘んじて受けよう。しかし定年まであと2年をきったが、心持ちとしては「長すぎる」時間だ。
 「時間が早く過ぎればいいのに」というのとは違う。早く辞めてしまいたいのだ。体力と気力がある内に。
 一方35年かけて培った人間関係が、重くのしかかっている。これをいい加減に手放す訳にはいかない。責任と倫理からは許されない。
 人間というものは、心理的な時間の把握と、年齢にともなう時間に耐える体力と気力は、歳と共に乖離が大きくなることを実感する。


春寒(はるさむ)・余寒‥

2010年04月08日 00時40分59秒 | 俳句・短歌・詩等関連
 例年のごとく、極めて業務繁多、どうしようもなくあわただしい中で、更新ができずにいる。楽しみにしているとの読者からの要望もないし、ちょぼちょぼと続けていく予定。4月末以降はこれまでの更新スピードに戻したい。
 さて「時には本の話でも…」(ブックマーク参照)にて「春寒」も「花冷え」も今の寒さにしっくりこないのではないか、との感想が掲載されました。
 まず①「春寒(はるさむ・しゅんかん)」「春寒し」「料峭(りょうしょう)」と②「余寒」「残る寒さ」、③「冴返(さえかえ)る」「凍返(いてかえ)る」「寒戻る」、そして④「花冷え」
 ①は立春後の寒さ。すでに春としての陽気が続いた後に、時として寒さが戻る時をいうようだ。短期間の寒さ。料峭はどうも肌寒いというような肌感覚的な言葉らしい。句も「料峭や家焼けて門のこりたる」(宮下翠舟)のような句が掲載されている。
 ②は寒明け後のまだ残る寒さを示し、大寒・小寒の約30日があけてもまだ寒さが残っているという気分。寒さの継続、断続的な継続をいうようだ。
 ③暖かくなりかけたころに、ふと寒さが戻ること。①に似ているようだが、心身が澄む間隔、気持ちが引き締まるような間隔があるようだ。「翻然と又敢然と冴返る」(相生垣瓜人)
否定的な使い方ではない。
 ④桜の花時に急に冷え込むこと。言葉の持つ美しい響きが愛好されている季語。
 否定的な意味での「寒」「寒さ」と言うときは①が適しているようだ。ただし、「春寒(はるさむ)」と「春寒し」ではまた違いがあるように思う。「春寒し」の方が文法的にも強い調子。
 さて今年のこの続く寒さにふさわしい言葉、というとなかなかうまく当てはまらない。あえて言えば「春寒し」が近いようだが、異常気象とは遠い。季語は標準的な季節の移ろいを前提としている。
 こんな程度で疑問に答えられることになっているだろうか。

桜に寄せる

2010年04月05日 06時32分36秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 本日は、厚い雲に覆われ、二時頃にはすぐにやんだものの、軽く雨が降ってきた。私は朝から横浜北部の農専区域をめぐる約18㌔のコースを歩いた。畑や農家の庭には点々と多種多様な桜がさまざまな色合い、枝振り、幹の張り具合、葉の出方を競って咲いていた。それも梅や海棠などに混じって。いろいろな桜と、その外の花木を堪能することができた充実した日となった。
 農家はいろいろな花木で春を、春の微妙な差異を、感じているはずだ。自然の微妙な時間の流れや差異を様々な植物やそこに集まる動物で感受する昔からの知恵があるのかもしれない。
 しかし隣接する団地や工場敷地、高速道路、公園、学校などは、ソメイヨシノ一色である。桜は接ぎ木で増やすから、ソメイヨシノのしかも同じ木の遺伝子のものが大量に同じ場所に植えられている。だから一斉に咲く。一種類の、しかも同じ家系のソメイヨシノの群落。
 これほど多様性を拒否した植生は、本来自然とは相容れないものである。それ以上に、桜を楽しむ心性のなんと貧困なことかと、嘆きたくなる。
 いつからこんな画一的な心性を列島に住む人々はいつから示すようになったのだろうか。少なくとも江戸時代後期以降ではないか、私は多分に明治以降であろうと独断かもしれないが推察している。
 確かにぱっと咲き、散り際の見事さはソメイヨシノに勝る桜はない。また夜桜の見事さもソメイヨシノならではのものがある。しかし列島からソメイヨシノ以外の桜が駆逐され、さまざまな桜が植物園の片隅に絶滅危惧種としてわずかに保存される事態だということが喧伝されるようになった。これは外来動植物の猛威以上の人為的な自然破壊であり、多様で豊かな植生とそこに生まれた文化の終焉を意味しないだろうか。
 ソメイヨシノ偏重は「大和ごころ」とはまったく相容れないものではないだろうか。近くで見る桜、遠めに鑑賞する桜、低山に控えめに咲く桜、それらのすべてが桜の実相だ。ひとつの側面だけでは桜の魅力は語ることはできない。
 今日私がみた団地には梅も辛夷も海棠も見えなかった。団地を造ったときの予算とセンスか、その後の維持管理の都合かはわからないが、悲しい現実である。実は私の住む団地も同じようなものである。ほとんどがソメイヨシノで、枝垂桜と八重桜が2~3本ずつ。そのほか色の濃い桜でソメイヨシノと同時期に咲くものが1本。
 団地の外に目を移すと、目の前の中学校には紅白の枝垂れ桜があり、山桜もある。中学の隣の大規模マンションの周囲と提供公園はソメイヨシノばかり。
 学校の桜はどれも戦争中に植えられたものが多い。公園の桜もそうだ。そしていづれもソメイヨシノだ。戦前の偏狭極まりない天皇制ナショナリズムを支えた底の浅いがさつな心性が、今も蔓延してはばからない。桜にとっての不幸はこのような歴史の負の遺産を背負わされてしまったことなのだと思う。桜には罪はない。西行の桜への思い、それはこんな金太郎飴の桜の相とは違うものであるはずだ。
 もう一度桜というものを考え直す時期ではないだろうか。


「仕事」を少し棚上げ…

2010年04月04日 17時33分19秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 昨日今日とウォーキングとサウナで汗を流させてもらった。多少の「仕事」は私の都合を理由に棚上げにした。どうなることやら、苦情には頭をさげるしかない。呑み込んでもらうしかない。長い時間体を動かし、汗を流し、趣味の領域に時間を費やさないことには体も精神も持たない。
 そう、私には「仕事が趣味、仕事以外に趣味がない」という生き方は出来ない。
 少なくとも自分が生きてきた生き方以外の生き方があること、考え方があることを理解し、許容できない生き方、あるいは人にあれこれ指図を繰り返し支配したがる人とのお付き合いは遠慮したい。
 そういうふうに人を選ぶことの出来る場に定年後は身を置きたい。
 そして声の大きい人と沈黙に耐えられない方も同様にお付きあいはしない。
 こんなことを書いていると、自分は随分と偏屈になったなぁと思う。自分で感じるのだからきっとかなりそう思われているに違いない。
 さて本日の朝、白濱一羊さんに「喝采」の中から気にいった句といくつかの感想を送信した。おこがましいこととはいえ、すてきな句がたくさんあった。これからも大いに活躍されることを期待したい。


今日はこの辺で…

2010年04月02日 20時59分06秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
本日もようやく取り敢えず時間を区切られた業務終了。やっと夕食タイム。
このあといくつかの宿題の片付け。12時前には、このブログの宿題になっている白濱一羊さんの句集を読みたい。
少しずつ読んだが、私の気持ちに沿った句、なるほどこういう把握があるか、という句がいっぱいある。
視覚だけでなく「音」についての敏感な句があるな、という印象もある。
偉そうな評を言える能力はないが、勉強になることは間違いがない。

月を見る

2010年04月01日 19時11分12秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 「昨夜は満月でしたね。日中の強風のおかげで月は冴え冴えと、そのぶん星の光がワリを喰ったようでした。望月よりも、いくらか欠けた月に何故か心惹かれるこの頃です」と「時には本の話でも…」というブログ(ブックマーク参照)に掲載された文章、私にはとてもうれしい文章だ。

 人がしみじみと月を見なくなってどの位たつのだろうか。こんなことを記述してから、自分ながら実につまらない愚問だと気づいた。
 時計というものが普及し、月の満ち欠けによらない暦が生活の中心になり、電灯が広範囲に普及し、徐々に月の満ち欠けに対する実用・関心が薄れて行くに従い、月を眺めることは少なくなる。月に付随する情念、情緒も解体してゆく。これは社会的な流れだ。そしてその流れは今よりは時間をかけて列島各地を不揃いに進行した。地域によって、人によって、職業によって、信仰によって、大きな差があるだろう。
 個人史をとってみてもこの不揃いの地域間の移動によって大きな変成をうける。そして成長過程での興味の変遷の作用も違う。同じような時期に同じような光景の月をみても印象はちがう。時間と空間の変容を射程に入れない理論は信用してはいけないというのが最低限の基準だ。唯物史観はこの変容を内包していたはずだが、時代の制約のなのか、生きた大切な部分の肉付けを拒否されるように捨てられてはしまった。そうして人間的な部分全体が消えて、機械的な、機能主義的な無味乾燥なものに変容して捨てられた。

 私にとっての月の最初の記憶は、実は小学校入学直後に買ってもらった図鑑に記された太陽系の全体図の中の月だ。そして月の満ち欠けの解説図による月だ。月を見たことはあったはずだが、特に記憶はない。図鑑を見ながら「ああ、これが月の正体だったのか」というような思いを抱いたと思う。 実際の月の印象はそれからもない。夜に外に出ることを禁じられていたかもしれない。滅多に夜間は外出することもない北海道函館市で、たまに家族で夜間に家を出るときは繁華街で当時としては明るい電飾の中で、星も月も印象に残るようなことはなかった。その後川崎市内の中心部に小学3・4年生を過ごしたが、ここでも実際の月の記憶がない。
 実際の月をじっくりと眺めた記憶は、横浜という都会の郊外に父が家を購入して住んでからだ。私鉄で一駅乗らなければ通えない小学校の帰り道に、畑の中を歩きながら見た月、朝登校途中に丹沢や富士の傍にあった月、6年生になって横浜中心部までの塾に通いながら夜8時過ぎに街灯もない真っ暗な道を月明かりをたよりにとぼとぼと帰った道の記憶、これが具体的な月の記憶だ。季節感や生活感とは切り離されてはいるものの、やわらかい月の光を、自分をすべて包み込んでくれるような母性的な意味合いで感受したと思う。あくまで大人になってからの思い起こしであるが‥。
 天文少年であったが、私は星を見たり、星座を覚えるよりは、星や銀河の生い立ちや宇宙論、そして星座にまつわるギリシャ神話に心ときめかしていた。反射望遠鏡を手にいれ、二重星や銀河、あるいは惑星をいくつも見たが、それほどの感動はなかった。月を見てその凸凹と周辺の陰影は大変興味深かった。今思うと、モノクロームの写真の陰影の持つ不思議への、美的な感動に近かったのではないだろうか。
 今から思うと、私の天文学へのあこがれは、理論ではなかったのかもしれない。志がかなわなかったことへの腹いせではないが、私の甘さでもあったろう。

 さて月に話を戻すと、大学生時代の月は大学のバリケードの中で見る孤立した心情と相和すものだ。光は柔らかいが冬の夜空にくっきりと浮かぶ緊張気味の鋭い形の金属片にも似た形だった。東京のデモで見る月も同じだ。
 就職後仕事&「仕事」を終えた後、疲れて見上げる月を毎晩見るようになった。疲れをいやす方途としては、仲間とのアルコールもあるが、夜中に徒歩で歩いて帰る途中公園のベンチで一休みしながら見上げる月は、蛍光のように静かに体を射抜いて、自分をさらけ出してくれるような光を発していた。意外と素直にさまざまな反省をそこではすることができた。尖がった自分の矛を柔らかくしてくれるようなものとして感受していた。
 そんな中でも、好きな月の場面が次第に形作られてきたと思う。満月より2~3日前か後の月、三日月よりも半月に近い形。これが冬の葉の落ちた樹木の間にあるのが好みになっている。ゆっくり歩きながら、細い梢、少し太い枝の影が月の前面をよぎっていくのが心落ち着く。あるいは公園などのベンチで月が少しずつ移動したり、風で枝が揺れながら月と戯れているのを見るのは、時間を忘れる。葉が出てきてしまってはつまらない。あの繊毛のような細い梢や枝がいいのである。冬よりも今時分、寒さが緩るみ春の暖かさが押し寄せている頃は特にうれしい。
 こんな状態で月を見ていると、早世した友人や先輩の若いころのままの顔が浮かび、当時の会話を思い出す。むろん30年もたっているから勝手な潤色や思い入れ、思い違いがあるはずだ。それでも構わない。事実と思えるものがあればそれが事実だ。そうしながら今の状態をどうするか、対話をする。このときだけは私は気持ちの上で饒舌となる。ひょっとしたら、はたから見るとブツブツいっている危うい酔った年寄りに見えるかもしれない。そんなことにはかまっていられない。
 大半のことは、腰をあげて家に着くころには忘れている。それでもこの充実した時間は貴重だ。私にとっての至福の時間の一種だ。私の回生の一瞬でもある。