横浜美術館で開催されている「プーシキン美術館」展を見てきた。既に7月中に訪れたが、混雑しているのでざっとひと回りだけして帰ってきた。協力会会員証があるので企画展も無料である。
ところが会期末まで10日になった本日12時過ぎに会場についてみると広い美術館の半分の長さに3重の人の列。待ち時間60分と言われてしまった。しかし私も妻も来週は来れそうもない。特に前売り券を購入した妻はどうしても入場したいとのことなので、並んでみた。実際は30分もかからずに入場できたが、会場内も大変な人ごみ。夏休みが終って学生がいなくなったと思ったのが甘かった。私ども夫婦もその中の一員に違いないが高齢者で溢れかえっていた。
それでも人の頭越しに見てまわることができた。前回早足で巡ったときに印象に残った絵がやはり今回も目にとまった。前回よりも時間をかけてまわったが、解説は読まずに絵だけを眺めた。会場を出てみるとさらに入場待ちの人の列が増えていてびっくり。
今回は17世紀から20世紀までのフランス絵画の300年ということで、画家の名前でいえばプッサンからマティスやピカソまでの66点が展示されている。
まず私の目にとまったのは、この絵。ウジェーヌ・フロマンタンの「ナイルの渡し船を待ちながら」(1872年)。
新古典主義やロマン主義という時代から自然主義の時代になるあたり以降の絵が私は好きだ。神話や聖書に題材を求めたり、肖像画が主流だったものが、コローやミレーの絵などが主流となった時代以降、私の好きな絵が多くなる。むろんそれ以前の絵も嫌いではない。ことに風景画に、人物の背景であってもそこの部分に着目して鑑賞したいと思う。
このフロマンタンの絵は、何かのカタログで見た記憶があるが、実物は始めてみたと思う。気がつかなかったのだが、描かれている太陽のすぐ上に、塗り消された別の太陽がある。このスキャンした画像にも微かに消された太陽が写っている。図録の解説に指摘してありびっくりした。
しかしそんなことよりも人物もらくだも特に何らかの所作を演じているわけではない。ただ静かに夕陽を浴びながら河の向こうをじっと見ている。とても叙情性溢れる絵だと思う。図録の解説では、太陽がより低い位置に変わることで、「静止した空漠な景色にゆったりとした時間の流れと自然の生彩な表情が加味された」とある。
私なりの理解では、要するに人物の顔の陰翳がより暗くなり遠近感が増し、画面に奥行が加わったと思える。それによって叙情性が加味されたと理解した。このような叙情性豊かな人物の表現は、「自然主義」絵画の特徴のような気がする。実際にエジプトを訪れて描いているそうだが、大きく描いた空の深みなどが印象的だ。
前者がコローの「突風」(1860年代半ば~1870年代前半)、後者はミレーの「薪を集める女たち」(1850年代前半)。コローの方が生れは18年ほど年長だ。
この二つだけで比較するつもりはないのだが、私のコローとミレーの印象がちょうどこの二つの絵に表れているように感じている。
コローの描く絵では自然の中のあくまでも点景として人間がいる。人間が自然の一部だ。それがとてもいいと思えるような絵だ。この「突風」のように人は自然に翻弄されるように慎ましい。自然の力がとても強い。人はその中で踏み潰されそうになりながら辛うじて呼吸して生きている。
ミレーの絵の人間は自然に対して敬虔であるが、同時に自然に必死に働きかけて生きている。人間が主である。自然は人間が働きかける対象として描かれている。そのような関係の中で人間と自然が交感・交通しあってている。この関係がとても好ましい郷愁をさそうように思えることがある。人間は神に祈るように自然に祈るときもあるが、同時に自然から生を得ようと逞しく働きかけるときもある。人間は自然に対して能動的である。
よく人は人間と自然の関係のたとえとして、自然の中に人間が息をしている場合に「自然との一体感」があり、東洋的という。人が自然に積極的に働きかけるのを「自然をねじ伏せるように」したがわせるのが、西洋的という。私は東洋と西洋をそのような区別で対比することに違和感がある。
コローとミレーのように西洋の文化の中にも両者は混在している。大陸的とも島国的ともいうときにも人間と自然の関係を同じように対比させることもある。しかしそんな安直な対比や文明論は信じないほうがいいと思う。
この両者の人間と自然との関係の違いをみれば、納得してもらえるのではないだろうか。
ところが会期末まで10日になった本日12時過ぎに会場についてみると広い美術館の半分の長さに3重の人の列。待ち時間60分と言われてしまった。しかし私も妻も来週は来れそうもない。特に前売り券を購入した妻はどうしても入場したいとのことなので、並んでみた。実際は30分もかからずに入場できたが、会場内も大変な人ごみ。夏休みが終って学生がいなくなったと思ったのが甘かった。私ども夫婦もその中の一員に違いないが高齢者で溢れかえっていた。
それでも人の頭越しに見てまわることができた。前回早足で巡ったときに印象に残った絵がやはり今回も目にとまった。前回よりも時間をかけてまわったが、解説は読まずに絵だけを眺めた。会場を出てみるとさらに入場待ちの人の列が増えていてびっくり。
今回は17世紀から20世紀までのフランス絵画の300年ということで、画家の名前でいえばプッサンからマティスやピカソまでの66点が展示されている。
まず私の目にとまったのは、この絵。ウジェーヌ・フロマンタンの「ナイルの渡し船を待ちながら」(1872年)。
新古典主義やロマン主義という時代から自然主義の時代になるあたり以降の絵が私は好きだ。神話や聖書に題材を求めたり、肖像画が主流だったものが、コローやミレーの絵などが主流となった時代以降、私の好きな絵が多くなる。むろんそれ以前の絵も嫌いではない。ことに風景画に、人物の背景であってもそこの部分に着目して鑑賞したいと思う。
このフロマンタンの絵は、何かのカタログで見た記憶があるが、実物は始めてみたと思う。気がつかなかったのだが、描かれている太陽のすぐ上に、塗り消された別の太陽がある。このスキャンした画像にも微かに消された太陽が写っている。図録の解説に指摘してありびっくりした。
しかしそんなことよりも人物もらくだも特に何らかの所作を演じているわけではない。ただ静かに夕陽を浴びながら河の向こうをじっと見ている。とても叙情性溢れる絵だと思う。図録の解説では、太陽がより低い位置に変わることで、「静止した空漠な景色にゆったりとした時間の流れと自然の生彩な表情が加味された」とある。
私なりの理解では、要するに人物の顔の陰翳がより暗くなり遠近感が増し、画面に奥行が加わったと思える。それによって叙情性が加味されたと理解した。このような叙情性豊かな人物の表現は、「自然主義」絵画の特徴のような気がする。実際にエジプトを訪れて描いているそうだが、大きく描いた空の深みなどが印象的だ。
前者がコローの「突風」(1860年代半ば~1870年代前半)、後者はミレーの「薪を集める女たち」(1850年代前半)。コローの方が生れは18年ほど年長だ。
この二つだけで比較するつもりはないのだが、私のコローとミレーの印象がちょうどこの二つの絵に表れているように感じている。
コローの描く絵では自然の中のあくまでも点景として人間がいる。人間が自然の一部だ。それがとてもいいと思えるような絵だ。この「突風」のように人は自然に翻弄されるように慎ましい。自然の力がとても強い。人はその中で踏み潰されそうになりながら辛うじて呼吸して生きている。
ミレーの絵の人間は自然に対して敬虔であるが、同時に自然に必死に働きかけて生きている。人間が主である。自然は人間が働きかける対象として描かれている。そのような関係の中で人間と自然が交感・交通しあってている。この関係がとても好ましい郷愁をさそうように思えることがある。人間は神に祈るように自然に祈るときもあるが、同時に自然から生を得ようと逞しく働きかけるときもある。人間は自然に対して能動的である。
よく人は人間と自然の関係のたとえとして、自然の中に人間が息をしている場合に「自然との一体感」があり、東洋的という。人が自然に積極的に働きかけるのを「自然をねじ伏せるように」したがわせるのが、西洋的という。私は東洋と西洋をそのような区別で対比することに違和感がある。
コローとミレーのように西洋の文化の中にも両者は混在している。大陸的とも島国的ともいうときにも人間と自然の関係を同じように対比させることもある。しかしそんな安直な対比や文明論は信じないほうがいいと思う。
この両者の人間と自然との関係の違いをみれば、納得してもらえるのではないだろうか。