Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

「プーシキン美術館」展(その1)

2013年09月06日 22時54分32秒 | 芸術作品鑑賞・博物館・講座・音楽会等
 横浜美術館で開催されている「プーシキン美術館」展を見てきた。既に7月中に訪れたが、混雑しているのでざっとひと回りだけして帰ってきた。協力会会員証があるので企画展も無料である。
 ところが会期末まで10日になった本日12時過ぎに会場についてみると広い美術館の半分の長さに3重の人の列。待ち時間60分と言われてしまった。しかし私も妻も来週は来れそうもない。特に前売り券を購入した妻はどうしても入場したいとのことなので、並んでみた。実際は30分もかからずに入場できたが、会場内も大変な人ごみ。夏休みが終って学生がいなくなったと思ったのが甘かった。私ども夫婦もその中の一員に違いないが高齢者で溢れかえっていた。
 それでも人の頭越しに見てまわることができた。前回早足で巡ったときに印象に残った絵がやはり今回も目にとまった。前回よりも時間をかけてまわったが、解説は読まずに絵だけを眺めた。会場を出てみるとさらに入場待ちの人の列が増えていてびっくり。

   

 今回は17世紀から20世紀までのフランス絵画の300年ということで、画家の名前でいえばプッサンからマティスやピカソまでの66点が展示されている。



 まず私の目にとまったのは、この絵。ウジェーヌ・フロマンタンの「ナイルの渡し船を待ちながら」(1872年)。
 新古典主義やロマン主義という時代から自然主義の時代になるあたり以降の絵が私は好きだ。神話や聖書に題材を求めたり、肖像画が主流だったものが、コローやミレーの絵などが主流となった時代以降、私の好きな絵が多くなる。むろんそれ以前の絵も嫌いではない。ことに風景画に、人物の背景であってもそこの部分に着目して鑑賞したいと思う。
 このフロマンタンの絵は、何かのカタログで見た記憶があるが、実物は始めてみたと思う。気がつかなかったのだが、描かれている太陽のすぐ上に、塗り消された別の太陽がある。このスキャンした画像にも微かに消された太陽が写っている。図録の解説に指摘してありびっくりした。
 しかしそんなことよりも人物もらくだも特に何らかの所作を演じているわけではない。ただ静かに夕陽を浴びながら河の向こうをじっと見ている。とても叙情性溢れる絵だと思う。図録の解説では、太陽がより低い位置に変わることで、「静止した空漠な景色にゆったりとした時間の流れと自然の生彩な表情が加味された」とある。
 私なりの理解では、要するに人物の顔の陰翳がより暗くなり遠近感が増し、画面に奥行が加わったと思える。それによって叙情性が加味されたと理解した。このような叙情性豊かな人物の表現は、「自然主義」絵画の特徴のような気がする。実際にエジプトを訪れて描いているそうだが、大きく描いた空の深みなどが印象的だ。

   

 前者がコローの「突風」(1860年代半ば~1870年代前半)、後者はミレーの「薪を集める女たち」(1850年代前半)。コローの方が生れは18年ほど年長だ。
 この二つだけで比較するつもりはないのだが、私のコローとミレーの印象がちょうどこの二つの絵に表れているように感じている。
 コローの描く絵では自然の中のあくまでも点景として人間がいる。人間が自然の一部だ。それがとてもいいと思えるような絵だ。この「突風」のように人は自然に翻弄されるように慎ましい。自然の力がとても強い。人はその中で踏み潰されそうになりながら辛うじて呼吸して生きている。
 ミレーの絵の人間は自然に対して敬虔であるが、同時に自然に必死に働きかけて生きている。人間が主である。自然は人間が働きかける対象として描かれている。そのような関係の中で人間と自然が交感・交通しあってている。この関係がとても好ましい郷愁をさそうように思えることがある。人間は神に祈るように自然に祈るときもあるが、同時に自然から生を得ようと逞しく働きかけるときもある。人間は自然に対して能動的である。

 よく人は人間と自然の関係のたとえとして、自然の中に人間が息をしている場合に「自然との一体感」があり、東洋的という。人が自然に積極的に働きかけるのを「自然をねじ伏せるように」したがわせるのが、西洋的という。私は東洋と西洋をそのような区別で対比することに違和感がある。
 コローとミレーのように西洋の文化の中にも両者は混在している。大陸的とも島国的ともいうときにも人間と自然の関係を同じように対比させることもある。しかしそんな安直な対比や文明論は信じないほうがいいと思う。
 この両者の人間と自然との関係の違いをみれば、納得してもらえるのではないだろうか。


「72年春・川内を語る 東北大学45Sの会」(再掲)

2013年09月06日 20時12分17秒 | 読書
 9月1日にアップした記事を再掲することにした。ひょっとしたら連絡が取れていない昔の仲間が万が一にもこのブログを見ていてくれたら、是非とも表題を見て連絡してくれたらありがたいのではないか、と考えたからだ。
 コメント欄に投稿してもらえれば連絡先を伝える工夫をしたいと思っている。そんな気持ちから表題をあらためて再掲してみた。
 ちなみに「45S」とは、1970(昭和45)年入学の理学部生の当時の略称。理学部は300名。数学・物理・化学・地学・生物の5つの学科に分かれるが、教養部の2年間は混在していて6クラスあった。




 「72年春・川内を語る 東北大学45Sの会」と命名した同窓会は、事前に参加登録された方全員が出席して楽しく有意義に、そして盛大に実施できた。
 遠くは浜松、柏崎、神奈川、東京、埼玉、古川、山形から仙台に集合した。仙台からは3名。1970年の出会いから43年目。
 みんな当時の人柄そのまま引きずっているような印象。会った瞬間に一気に時間が43年近く逆戻りしたような錯覚に・・。



 そして文書などの資料も4人から提出された。

 一人一人の発言は短い、長いはそれぞれだけど、言葉の一つ一つに、40年の人生に対する判断、社会に対する姿勢が充分に理解できるような思いがした。「変わってないなぁ」、「よくわかる」「あいつらしいな」・・そんな感慨がたくさんわいてきた。

 やはり震災・原発は重要なキーワード。
 1978年の仙台の震災を経験した者も、今回経験した者も、中越地震を経験した者も、そしていずれもたまたま経験しなかった者も、3・11をいつも反芻しているようだ。

 参加の皆さん、感謝いたします。

 心ならずも生涯を絶った仲間のS君の思い出も共有できたと思う。福島第一原発のすぐそばで育った彼のお墓は今は立ち入りも遠望もできない。ひょっとしたら流失してしまっているかもしれない。私達の心の中に生き続けて行くよすがのひとつとしたい。そんなことも40年のうちにあった。

 しかし本当に楽しかったぁー(^_^)/

 そして本日は東松島市を中心に津波被害地を訪問させてもらった。
 野蒜の海水浴場では参加者の多くが訪れたこともあり、石巻も遠望できて感慨ひとしお。ちょっと呆然とした瞬間でもあった。



 仙石線の線路や駅のあったところから線路が撤去され無人のプラットフォーム跡などさびしい限りだ。鉄道の跡というのを見ると、鉄道施設というものが単なる施設ではなく、人々の息遣いが張り付いた、血の通っているものにも見えてくる。人々の生活と切っても切り離せないものが息づいているようだと感じる。

 東名(とうな)漁港の再生工事も、がれき処理の現場も地質・土木・行政に関わった身には大変気になる現場であった。



 東名にある、年齢が4歳・5歳と若い子供の名が幾つもあり、93歳を一番の高齢とする名も見受けられた慰霊碑前では自ずと頭も下がった。

 案内を買って出てくれた方、企画・案内をしてくれた仙台の仲間に心から感謝したいと思う。本当にありがとうm(_ _)m


大雨、ようやくひと段落

2013年09月05日 23時27分31秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 15時過ぎにはすべての注意報も解除されたようだ。鉄道を中心にかなりの影響が出たようだが、とりあえず過ぎ去ってくれた。

 本日、この雨ならば横浜美術館のプーシキン展も空いているかもしれないと出かけるつもりであった。しかしふと暦を見ると木曜日=休館日であった。またしても休館日に出かけてがっかりするところであったが、今回は事前に踏みとどまった。しかし明日しか行く日がないのだが、混雑はどうであろうか。

 出かけるのを断念して、神奈川大学の生涯学習講座のネットでの申し込みを行った。出来るだけ絞ったが、結局前期よりも大分受講する講座は増えた。申し込んだ以上は全日程をこなしたいが、出切るだろうか。

 夕方は久しぶりにジョギングで出かけたが、脹脛の筋肉がパンパンに張ったため、途中から歩いて引き返した。八幡平を除いてしばらく歩くこともあまりしなかったからだと思う。またしばらくはウォーキングから徐々に再開するようにしないといけない。

 そして夜は同窓会で撮った写真の整理をボチボチと始めた。今日一日では終らない。明日・明後日までかかるかもしれない。

大雨洪水警報、雷注意報等

2013年09月05日 11時23分54秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 台風17号から変わった低気圧から南に伸びる寒冷前線の影響で横浜は昨晩から雷と雨が断続的に襲ってくる。朝早く一時太陽が顔を出した気配もあったが、その後はずっと薄暗い。関東各地で強い雨、落雷、それにともなう鉄道の運休・遅延が報道されている。
 横浜も土砂災害警戒情報や大雨・洪水警報、強風・雷注意報が出ている。多分私が長年勤めた部所では昨晩から配備体制で徹夜の待機・作業となっているのであろう。私が従事してきた職場は、公の道路・下水・河川・公園の施設管理であった。災害が日常業務として渾然一体となっている職場はこのほかにもたくさんあるだろうが、それぞれに災害の第一線ならではの危険などに直面している。
 同時に都市施設の整備・維持管理には民間の業者にも多大の活躍が不可欠でもある。しかもその本当に第一線には私たちの地方公務員のほかにも極めて多数の外国人労働者が従事している。日本の都市基盤の維持管理は彼らの存在なくしては何も出来ないに等しいことは忘れてはならない重大な事実である。多くの人々はそのことにあまりに無自覚である。
 日常に起きる災害時の土砂崩れや水の溢れた個所の復旧、道路陥没現場、除雪作業、交通規制の作業、街路樹の伐採、河川の護岸工事などの現場作業には、自治体の現業・非現業職員、民間の建設業協会等の職員に混じって実に多くの外国人労働者が従事している。せめて災害時には第一線の危険な場所で働く彼らのことを少しでも思い出してほしいと思う。病院や介護、消防、警察、教育現場などの業務を真っ先に思い浮かべる。それもとても重要なことであるが、同時に都市基盤整備という縁の下の力持ちの役割もとても大切である。

 10時半過ぎ、ようやく空が少しずつ明るくなってきた。雨も小降りになってきた。何より小降りの雨の中で蝉が鳴き始めた。晴れるのが待てないほどに、生の最後の叫びを競っている。このまま天気が回復して欲しい。
 利根川水系の貯水率が少しでも改善されることが待たれている。


危機に対する対応

2013年09月04日 23時36分17秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 八幡平から降りてきて盛岡発の新幹線に乗っているとき、登録してある新聞社のメールが来て埼玉で竜巻が発生したとの情報がきた。気になったがそのまま家までたどり着いてからニュースを見た。
 そのとき、NHKのテレビを見ていたのだが、私にはどうしても理解出来ない投稿画像が何回となく流された。NHKともあろう放送局がこんなスマホの投稿画像をどうして何回も流すのだろうと不愉快になった。
 それはある女子高生が2回の窓からはじめは遠くの竜巻を写している映像から始まる。次第に竜巻が近づいてきてその女子高生は窓を閉めようとするのだが、風圧でなかなか締まらない。母親に手伝ってもらってようやく窓を閉めるのだ。締まらない窓ガラスに彼女はかなり動揺して声を出して母親を呼び窓を閉めた。
 はっきりいってとても危険な場面である。窓が閉まらなければ極めて危険な状態であるのはその画面を見ればすぐわかる。いろいろなものが舞い上がって窓に向っている。そのままでは風が部屋に入ってきて、女子高生も怪我をする寸前にようやく母親の助力で窓を閉めていた。
 しかし、私がどうしても納得できないのは、その間窓を閉めようとするところから母親を呼んで母親が苦労して窓を閉めようとしているのを片手で手伝いながら、その子は携帯かスマホを手放そうとせず、その上撮影を止めようとしないのである。母親もそれを承知で窓を閉めようとしている。
 私なら、私が高校生のときにこのようなことがあれば、撮影はまずやめて窓を閉めようとするはずだ。母親に手伝ってもらいながら撮影を止めようといない。いったいこの女子高生は危険と判断はしていても撮影することで窓が閉めにくいとかんがえなかったのだろうか。母親もそれを止めようとしないのだ。危機に対してまっとうな判断ができなくなったとしかいいようが無い。

 危機を回避する能力が欠如しているのではないか、と思ってしまった。危機に対する対処能力がない。災害や事故に対してあまりに無防備な姿勢ではないだろうか。

 さらに私が不思議に思ったのは、そんな画像をそのまま放送に使ってしまうNHKの報道姿勢だ。こんな危険なことをしている高校生に対して、「こんな危険なことをしてはいけない。撮影をやめて母親と自分の身を守る対応が必要。どうして窓を両手で閉めようとしないのか」とどうして注意をしなかったのだろうか。あれではあのような危険を冒すことを奨励しているような映像である。NHKともあろうものがおかしいのではないだろうか。

 NHKだったか他の民放だったか覚えていないが、やはりあの竜巻の中を走りながら左側面と正面の竜巻を写している動画も幾度も流された。周りの自動車もどんどん走っていく。竜巻の中を車が走っていくのが写されている。どうして停車しないのだろうか。投稿されても放送するような動画なのだろうか。

 ニュースで大雨で冠水した道路を車が走りすぎて行くのが写される。排気筒よりも深い冠水状態であるのが目に見えているのに手前で泊まろうとしないでわざわざ水の中で立ち往生するためにとしか思えない走り方をする運転者。これなどもとても信じられない光景である。

 ここにも危機対処の能力が日本の都会人に欠落している証左を見るような気がした。

 その前には、どこかの食堂に包丁をもった強盗がレジを襲っているとき、客が子供がいるにもかかわらずそれを撮影してツィッターだかフェースブックだかに投稿して、警察が危険だからやめるように諭したということが報道された。これなども私には信じられない危険な行為である。このように危険を回避する行動がとれず、危険を呼び込むような行為をするということが私にはとても理解不能である。

 危機回避能力、危機対処能力が著しく退化しているか、欠如しているのではないかと短絡的に考えてしまいそうである。

 台風や大雨などの災害、あるいは事故になりそうな状況に遭遇した時のとっさの行動は、習ってできることではない。何をした方がいいか、何をしては危ないか、これはさまざまな事象を経験しながらおのずと身につけていくものだ。
 私もこんなことを書いていても実際にいろいろな災害や事故に遭遇して我を忘れてオタオタするかもしれないが、上記のような行動は少なくともすることは無いと思う。

 悪ふざけ投稿も流行っている。バスの後ろにしがみついたり、地下鉄のホームから線路に降りて高圧電流が流れている空間に立ってポーズをしたり‥。投稿により自分の社会人としての危機を自ら招いているのも同じでは無いだろうか。危機の予知も出来ていないという点では、ひょっとしたら同じ病なのかも知れない。

 何かが欠けている。現代の日本、何かが変だ。

同窓会の記事に写真をアップ

2013年09月03日 20時36分33秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
 先ほど9月1日付け「同窓会と東松島付近被災地訪問」の記事に写真を添付した。同窓会場や仙台市内散策、懇親会場の写真は顔写真を中心に取ったので、アップできる写真はなかった。被災地訪問の写真も人が写っていない写真で適当なものは少なく2枚のみ掲げることにした。
 掲載した写真の数以上に充実した会であったと自画自賛している。撮影した写真をふんだんに使って報告文を参加者全員に送る予定だが、出来上がりは10月はじめを目標にしている。早めに出来るのがいいにこした事は無いが、自信が無い。しかし忘れてしまう前に作りたいものである。

 八幡平の登山の写真は近いうちに、その記事の中にアップしたい。土砂降りの雨で写真を撮影する余力はなかったが、最後に雨があがったときは秋田駒ケ岳、岩手山がよく見えてとてもうれしかった。
 掲載予定の写真にあわせて記事を手直ししてみた。




無事帰宅

2013年09月03日 00時08分47秒 | 日記風&ささやかな思索・批評
22時過ぎに家に到着。ひさしぶりなような気がする。
やはり我が家の布団と枕は嬉しい。

セキセイインコも私のことは覚えていてくれた。
それなりに嬉しい。

さてシャワーを浴びてさっさと寝てしまいたい。と思ったがたったこれだけの文章がなかなかスマホからアップ出来ずにおたおたしている。変換間違い・電源切れ・途中で消えるが2回・・。
1時間もかかっている。日付が変わってしまった。草臥れたのもしれない。
ということでおやすみなさい。

八幡平登山

2013年09月02日 19時43分25秒 | 山行・旅行・散策
 雨の中八幡平を登り無事下りて来た。

   

 まず「八幡平自然散策パス」が運行しているとの情報を得て盛岡駅まえに出向いたのだが、どうもこのバスの運行表を見ても今ひとつピンと来ない。同じ岩手県北バスの路線バスとの関係がはっきりしない。切符も別扱いだ。どうもこの「自然散策バス」は八幡平市観光協会からの委託運行のようで、既存路線との整理が出来ていないようだ。

 さて、11時過ぎに「八幡平頂上」バス停に着いたときは土砂降り。昼食を食べる間様子を見ていたがやむ気配がない。雷注意報が出ていたようだが、風もなく雷の音も聞こえないので、おもいきって出かけることにした。
 しかしザックカバーは忘れていた。またゴアデックスとはいえかかとの浅いトレッキングシューズ。ただし雨具は持参している上、傘もある。着替えもある。ウィンドブレーカーをリュックに巻きザックカバーの替わりに仕立てた。

   

 30分で頂上とあるが早めにあるいてみたら15分で頂上に着いた。道はコンクリートで固めた石畳道。しかし案内標識も注意看板も雨に煙って見にくい見あたらない。
 それでも幾枚が写真を撮り続け、立派で新しい頂上の標識とその付近を撮ってみた。展望台を作るための資材らしいものがおいてあったのはちょっと興醒め。
 下山路は途中から真新しい立派な木道になり、大きな池をめぐっている。立派な避難小屋小屋「稜雲閣」で2パーティー6人ほどが休憩を取っていた。ここで一旦汗を拭った後、源太森に向かったが雨がますますひどくなり、分岐から出発地の見返峠に戻った。



 見返り峠に分岐から20分で戻ってみると途中から晴れ渡り、まったく見えなかった岩手山とそこに至る裏岩手縦走路がごく至近距離に見えてきた。この縦走路は昔岩手山からここまで歩こうとしたが悪天候で中途で下山した縦走路である。いつかまた再挑戦したい道である。

      

 岩手山のほか、裏岩手従走路で一番近い畚岳の左に秋田駒ヶ岳、案内標識と較べて見ると右に多分月山と鳥海山らしい山塊が見える。畚岳と見返峠の建物の間に手に取るように至近距離に見えた。多少無理しても登った甲斐があった。しかし鳥海山はもっとピラミダルに見えると思っていたので自信はない。

   

 戻ってからさらに20分ほど下った藤七温泉の混浴露天風呂で1時間のんびり浸かった。入浴料600円。宿泊でも12000円以下とのこと。広い河原にしつらえた風呂は底から暑い湯が沸き野趣満点。



 盛岡駅に戻ったのが17時過ぎ。お酒と駅弁を購入したが、お酒は残念ながら首を傾げる味わい。お弁当はおいしかった。お弁当の写真、鳥の照り焼きはすでに胃の中に納まっている。

 21時に東京着予定。明日は洗濯と休養。明後日は前期最後の講座。

明日の盛岡の天候が気になる

2013年09月01日 22時36分26秒 | 山行・旅行・散策
本日は横浜に帰る前に寄り道をして盛岡に足を伸ばした。
横浜にお土産を買い、宅急便で送った後、駅前の居酒屋で「鷲の尾(八幡平)」と「浜千鳥(釜石)」を飲んでご満悦。ツマミは岩ガキとメカブ酢。仕上げは名物じゃじゃ麺。あわせて2800円なり。

明日は雨の予想。一昨日・昨日と台風の予想が外れて良い天気。これ以上のぞんではいけないのかもしれない。雨ならばバス登山も止めないといけないかもしれない。

おとなしく寝てしまおう。

同窓会と東松島付近の被災地訪問

2013年09月01日 20時20分11秒 | 日記風&ささやかな思索・批評


同窓会は登録された方全員が参加して楽しく有意義に盛大に実施できた。
遠くは浜松、柏崎、神奈川、東京、埼玉、古川、山形から仙台に集合した。
仙台からは3名。1970年の出会いから43年目。
みんな当時の人柄そのまま引きずっているような印象。会った瞬間に一気に時間が43年近く逆戻りしたような錯覚に・・。



そして文書などの資料も4人から提出された。

一人一人の発言は短い、長いはそれぞれだけど、言葉の一つ一つに、40年の人生に対する判断、社会に対する姿勢が充分に理解できるような思いがした。「変わってないなぁ」、「よくわかる」「あいつらしいな」・・そんな感慨がたくさんわいてきた。

やはり震災・原発は重要なキーワード。
1978年の仙台の震災を経験した者も、今回経験した者も、中越地震を経験した者も、そしていずれもたまたま経験しなかった者も、3・11をいつも反芻しているようだ。

参加の皆さん、感謝いたします。

心ならずも生涯を絶った仲間のS君の思い出も共有できたと思う。福島第一原発のすぐそばで育った彼のお墓は今は立ち入りも遠望もできない。ひょっとしたら流失してしまっているかもしれない。私達の心の中に生き続けて行くよすがのひとつとしたい。そんなことも40年のうちにあった。

しかし本当に楽しかったぁー(^_^)/

そして本日は東松島市を中心に津波被害地を訪問させてもらった。
野蒜の海水浴場では参加者の多くが訪れたこともあり、石巻も遠望できて感慨ひとしお。ちょっと呆然とした瞬間でもあった。



仙石線の線路や駅のあったところから線路が撤去され無人のプラットフォーム跡などさびしい限りだ。鉄道の跡というのを見ると、鉄道施設というものが単なる施設ではなく、人々の息遣いが張り付いた、血の通っているものにも見えてくる。人々の生活と切っても切り離せないものが息づいているようだと感じる。

東名(とうな)漁港の再生工事も、がれき処理の現場も地質・土木・行政に関わった身には大変気になる現場であった。



東名にある、年齢が4歳・5歳と若い子供の名が幾つもあり、93歳を一番の高齢とする名も見受けられた慰霊碑前では自ずと頭も下がった。

案内を買って出てくれた方、企画・案内をしてくれた仙台の仲間に心から感謝したいと思う。本当にありがとうm(_ _)m