私の寒山拾得のイメージは森鴎外の「寒山拾得」という短編のイメージしかない。寒山・拾得がそれぞれ文殊・普賢菩薩であるというような話に仕立てて、作品の中ほどに「盲目の尊敬では、たまたまそれを差し向ける対象が正鵠をえていても、なんにもならぬのである」と、盲目の信仰を揶揄していると癇癪できる。
そうして閭というお偉い役人の俗物性を揶揄しているのが鴎外の作品である。豊という風来坊の僧を使って禅寺の雑用係りの小僧を文殊・普賢と見立ててそそのかしてからかうという話である。拾得が去った後、他の僧が飯や菜のお代わりを求めて閭のまわりに集まったというのは、どう解釈したらよいだろうか。寺では身分の上下に関係なく日常の作業を分担するのだという嫌味と解釈するのか、単に拾得がいなくなった代りの者を高僧が連れてきたと誤解したのか、そこまではわからないが私は後者だと思っている。

【与謝蕪村「寒山拾得図」(1778)】

【菱田春草「寒山」、横山大観「拾得」(1903)】

【伊藤若冲「寒山拾得図」(1700年代)】
画題としての寒山拾得を見る場合、隠者に仕立てられて皮肉たっぷり、世の中をどうみても斜に見ている二人の様子や、何とも嫌味たっぷりの哄笑する姿は私の好みではない。
いかにも知識人風の人間が無理をして襤褸をまとい、最下層の僧の形をして、他の知識人や社会を見下して笑っているいるようだ。私の年代の者にとっては拗ねて無理をしてフーテン風に振る舞っている人間にしか見えない。それでは社会に対する批判にはなり得ない。笑いが心の底からのものではないようだ。映画「フーテンの寅」の作品としての人気の秘密は嫌味のない実直さである。あれが拗ねた知識人ならば受け入れられることはない。
しかし先にあげた伊藤若冲の寒山拾得図となると嫌味の無い、屈託のない笑いと変化していく。そういう無垢性が宗教や信仰とどう結びつくのかはわからないが、隠者風に仕立てられた中国特有の厭世観は私にはなかなか理解できない。
そういった意味で、与謝蕪村の寒山拾得図は私にはよく理解できない。ただし絵としてどうかと云われれば、それは面白いのかもしれない。
大観・春草の初期にかかれた寒山拾得図も隠者風の描写である。ただし表情は無理のない笑みであり、あまり斜に構えた嫌味は薄らいでいる。どちらかというと拗ねた知識人ではなく、実直な庶民性が窺われる。嫌味のない笑いに見えて好感度は高いのだろう。
伊藤若冲の寒山拾得図ではそのような庶民性とか知識人的というような枠をすっかり外してしまっている。ここまで行ってしまうと嫌味も毒も、批判精神もすべて胡散霧消してしまう。これがいいとは私も思わないが、一般的な受けはいいのだろう。
いろいろな寒山拾得図があるが、中国の作品は隠者風に仕立てられ、日本にわたって時代が下るにしたがい嫌味な哄笑は少なくなり、世の中を拗ねて斜に見るような描き方は薄らいでいく。このあたりの変化を見るのは面白い。