本日夕方、サイフォンで美味しいコーヒーを淹れてくれる喫茶店で読書中に、退職者会の他の役員から連絡。退職者会ニュースの裏面の記事について朗報。
私は参加しなかったが、本日のイベントの報告を明日送信するとのこと。明日のイベントの記事をどう長くするか悩んでいたこともあり、おおいにうれしかった。ふたつの記事では狭いくらいのスペースだが、何とかおさめたい。裏面のメイン記事のスペースが大きすぎることが悩みであったが、これを少し削ることも可能かもしれない。
明日はイベントなので、明後日ねじり鉢巻きで何とかしたい。記事が必要以上に多くなるのは困るが、今回のような飛び込みの記事は大歓迎である。苦労のしがいがあるというものである。
さて、明日のイベントは私どもの退職者会の上部団体の主催によるバス旅行で房総を訪れるとのこと。9時に横浜駅前集合である。8時半には家を出たい。これは私にとっては大変なことである。早寝しても果たして起きられるであろうか。
心配はトイレ付きのバスかどうかということ。事前に確認するのを忘れていた。トイレ付バスは高齢者対象のバス旅行では忘れてはならないことである。私どもの退職者会では必ずトイレ付バスを仕立てるのだが・・・。
まあ、そうではないバスでもなんとかなると、楽観している。水分と途中のアルコールは控えざるを得ない。
本日「浄土思想 釈尊から法然、現代へ」(岩田文昭、中公新書)を読み終えた。
本日読んだのは第6章「二十世紀の新たな物語」と終章「物語は現代に続く」。
「いつの時代でも宗教的体験は、宗教の真理判定の重要な要素であった。とはいえ伝統的社会では宗教的権威が真理判定に大きな役割を果たしており、宗教的体験そのもののもつ意義に一定の枠組が課せられていた。‥浄土三部経がいったん文字となり成立してからは、書かれていることは釈尊の言葉であるとして、仏教者は経典に真理基準をおいていた。‥自らの体験が重要な意味をもっていても、経典の真実性を根拠づけるのではなく、経典についての自らの「解釈」が正しいことを根拠づけるものとなっていた。」
「西洋の近代的な文献学が導入され、大乗経典が歴史上の釈尊の言葉ではないことが知られてきた。また伝統的思考や権威、宗教的共同体の絆が弱体化してきた。‥近代の諸思想に出会うなかで、宗教的体験のもつ意義が重要視されていった。明治以来、知識人青年には、宗教の真理性をその体験、自らの実際の経験において検証する傾向が顕著に表れてきた。」
「(親鸞は歎異抄の中で)経典の引用も解釈もなしに、念仏をとるかとらないかは、各人にまかせると突き放す。親鸞は一人の人間が単独者として本願の真実性に、向きあうか否かを弟子たちにまなっている。仏教の二つの意味のうちの「釈尊の教え」よりも「仏になる教え」を根本においているだけではなく、「釈尊の教え」にもとづく詳細な教義解釈を不要であるかのように省略している。」
いろいろと引用したが、いづれもどこか懐かしい議論のような気がした。それを思い出すと同時に、現在の私に響くのが、終章の精神分析や心理療法に結びつける「物語」論であった。
「親鸞や證空も、浄土教の伝統の中でその思想を形成し、‥教団の中で固定的に捉えられてきた。しかしかれらの思想はダイナミックな思索の可能性をうちに有している。物語が再構築され、また物語が創造的に解釈され、新たな物語が発生することは否定されないからである。‥浄土教の物語はそのような未来にも開かれている。」
最初の一文のとおり「教団」という組織ではあらたなダイナミズムはもう生まれないと私は思ってきたし、今もその判断は変らない。「教団」は「自ら考える人」を排除したがる。排除の論理と組織の延命を自己目的化せず、それを避けるあらたな「物語」が生まれるとして、どういうところから生まれるのだろうか。40数年こんなことばかりを考え続けてきた。
午前中に退職者会ニュースのおもて面の残りのわずかなスペースを埋めた。おもて面はこれで完成。
昼前にガス工事の見積もりにきてもらい、工事の日程が確定。その他もろもろの用件を片付けて、簡単な昼食にありつけた。
いろいろとこなさなくてはけないことが重なる。「雑用」と言ってしまうとこなす気が失せる。どれもが必要な用件である。どんな些細な用件に見えてもその向こう側に人の顔が見えるはずだ。人の顔を思い浮かべないと独りよがりになってしまう。初心忘れずべからず、どんな仕事も丁寧に、という言葉にはこのことが含まれている。
年寄りの繰り言と捨てずに、数多の政治家や人前に出て表現をしている人には是非忘れないで模範を見せてもらいたいものである。
本日は気分転換で横浜駅近くの喫茶店で30分ほどの短い読書タイム。雨月物語の「吉備津の釜」を読み終え、さらに「浄土思想」の第6章「二十世紀の新たな物語」を少々。
雨月物語の「吉備津の釜」という物語については昔から認識が無かった。はじめて本文に触れた。
裏切りと憎悪の男女の世界、鬼と化す執念というのは現代の私たちからはなかなか理解できない。しかし物語としては秀逸に思える。さまざまな伝承が下敷きにあり変容して語られるので、解説を読んでもピンと来ないものもあるが、それを知らずとも十分に読み応えのある筋立てである。
女の側からは理解できない男の性が描かれ、女の情念が男を殺してしまう。男も女も救いはない。
次は長い「蛇性の淫」。こちらは男の側からは理解できない女の情念により、男が回生する物語。結末に救いはあるが、男は情念を捨てることになる。
夕方になり、労働組合の退職者会ニュースの裏面のメイン記事の原稿が送信されてきた。いそいで内容や字数の調整をしながら、記事を仕上げた。残りは明後日のイベントの報告記事1本。私の担当でもある。懸案のおもて面の囲み記事のあても一応見つけた。
これで裏面は85%ほど、おもて面は96%ほど、合わせて90%程が完成した。金曜日には全体が一応完成し、他の役員にチェックをお願いできる状況になる。予定より3日程度も早く印刷所に持ち込めそうである。
今月号は順調に作成できた。うれしいものである。
退職者会ニュース、昨日指摘された誤字・脱字などを訂正、また裏面のメイン記事の再割り付けなども完了。記事を1本仕上げるところまで出来上がった。
おもて面は97%完了、裏面は65%完了といったところ。全体では何とか80%は出来上がった。肝心の裏面のメイン記事の原稿がまだ送信されてこない。もう1本の記事は明後日のイベントに私が参加して書くが、これは短い文章で済む。おもて面の小さな囲み記事をどうするか、目途が立たない。
最終に近くなってちょってごたごたとしたが、何とか順調である。ごたごたするのもまた、ある意味では楽しみである。問題は本号はデータ量が多すぎて、印刷所には電子メールでの送信が難しい。直接データを入れたメモリーを持参する破目になってしまった。
時々は担当されるかたと対面で話をしたほうが、私も勉強になるはずだ。
一段落したので、気分転換のためこれよりいつものように出かけるつもりになった。
本日の打合せが終ってから、途中までできた退職者会ニュースのチェックを打合せに参加した役員に目を通してもらい、語句の訂正個所の指摘や、割付についての感想を貰った。帰宅後一部の訂正を実施。残りは明日もう一度じっくりと検討することにして、夕食。
夕食後、そのまま眠ってしまった。眼が疲れていたと思われる。やはり編集作業は眼を酷使する。また作業に熱中して根を詰めてしまう。無理をするのは良くないと分かっていてもやめられない。無意識の誘惑作用がある。
読書の時間も少し短めにしたほうが良さそうである。本日の作業は目が覚めたばかりだが、これにて終了。
明日は15時過ぎから組合の会館で打合せ。終了後は何処にも寄らずにすぐに帰宅したいものであるが、どうなることやら。
明日は本日よりも少し気温が上がるらしいが、乾燥して過ごしやすい天気とのこと。
毎年花見に訪れる近くの公園を二人で歩いていたら、ソメイヨシノの木が青々とした葉をつけてけていてびっくり。さらに見ると、何と蕾をつけていた。間もなく咲きそうな気配である。春に出た葉はすべて散っている中でこの時期の青々とした葉と蕾は異様な光景である。
慌てて歩きながらスマホで写真を撮ったもののピントが合っていなかった。それでも蕾と青い葉は写っている。青い葉は5本以上、蕾は1本で写真に写っているだけ。
テレビのニュース番組でもときどきそのような報道をしていたが、見つけたのは初めて。今年の異常気象の影響らしい。蕾の数はごく少ないが、これがもっと咲いてしまうと、来春の花の状態にはけっして良くない影響を与えそうな気になった。
快晴で気持ちの良い陽射しであった。最高気温は20.2℃とほぼ平年並み。北風が吹いていた。
長袖のポロシャツと開襟シャツを購入してくれるというので、近くのターミナル駅のショッピングセンターまで付いて行った。3着ほど購入。これまでのものはだいぶくたびれて袖口などが擦り切れかけていたり、少々きつくなったのでワンサイズ大きいものを買った。これで秋から冬に着るものの心配は無くなったはず。防寒着が体に合っているか、まだ点検していない。
午前中と買い物から帰宅後は、退職者会ニュースの原稿づくり。おもて面は95%ほど出来たが、原稿がまだ替わる可能性もある。本日は裏面に貼りつける写真を中心に調整。裏面は40%は完了。なかなか調子よく進んでいる。本日はこれで作業は終了。
私はおにぎりがとても好きである。しかし食べる機会はあまりない。また最近は美味しいおにぎりにとんとお目にかかっていない。私の「おにぎり」へのこだわりを記載してみる。他人から見たらシャカリキになるほどの切実さはないのは承知している。
学生時代はおにぎりを時々自分で作って食べた。どこかに行って食べるためではなく、自分で作る夕食時に、炊飯器で出来立てのご飯を使って、おにぎりを時々作っていた。家の中で食べるのである。あるいは朝の食事用に前の晩に作ることもあった。熱いご飯で手が赤くなるのが意外とおもしろかった。そして意外と塩加減が難しいことも知った。俵型のほうが上手く握れた。
最近はあまりに軽く握るおにぎりばかりがもてはやされる。おにぎり=お握りと理解している私は、しっかり握ったおにぎりが好きである。持っただけで崩れてしまうような形を作っただけのものは私に言わせると、おにぎりではない。まがい物である。
表面は軽く塩味がないといけない。私の好みの具材は、焼き鮭、鰹節、昆布・海苔ならびに葉唐辛子の佃煮。味噌を軽くご飯にまぶして握ったものもいい。おぼろ昆布で巻いたおにぎりは評価が分かれるが、私は嫌いではない。ただし崩れる前に嚙み切れる程度に薄く巻いたもののほうがいい。
海苔は、直におにぎりに巻いたもの。分離してパリパリのまま食べるのは好まない。特にほとんど握っていないおにぎりでは、海苔に引っ張られて崩れやすくなる。巻いてあれば、柔らかくなっており、おにぎりは崩れにくくなる。
崩れにくく、食べやすいことが大切であるから、具材はご飯にちゃんと包んでなくてはいけない。具材が外に顔を出しているのは、おにぎりとはいえない。
昔、パリパリの海苔をビニールの包装の間に挟んでコンビニで出回ったころ、こんなのはおにぎりの恥、だと思った。しかしそういうおにぎりしか店頭に並ばなくなり、コンビニやスーパーのおにぎりからは遠ざかっていた。しばらくしてご飯に直に巻いているおにぎりが復活して、とてもありがたかった。
おにぎりは現在では、お酒を外で飲で、酔い覚ましのために遠回りして歩いて帰るときにコンビニやスーパーで購入して食べることが多い。
そのときも、ビニールで包んであるおにぎりを自分なりに再度強く握りなおしてから食べることにしている。
店で販売しているのは三角形のおにぎりばかりである。三角形も悪くはないが、私は俵型のおにぎりのほうが食べやすいと思う。三角形だと、崩れやすく、丸く歯形が残る。俵型ならば、歯形の後をあまり目立たないように頬張ることができる。しかも片手で食べることが出来る。三角形だと両手で頬張らないと口の両端からはみ出して崩れやすい。作るのは面倒かもしれないが、私が作るときは俵型のほうが多い。
買って食べるときのおにぎりも、しっかりと握った俵型で、海苔が直にご飯に巻いてあるもの、具材が見えないようにご飯できちんと包んであるものが店頭にあるとうれしい。
「浄土思想」(岩田文昭、中公新書)の第5章「親鸞の浄土観と物語論」を一応読み終わった。一応というのは、理解したかどうかは心もとない、という意味合いである。
「他の浄土教の思想家に比べ、親鸞は感覚的で実体的な浄土は否定的に取り扱っている。親鸞の教説の大きな特徴は、仏や浄土を感覚的・現実的なイメージではなく、抽象的・原理的に表現すことにある。しかしこの親鸞の思想の根底には、法蔵説話の力とその説話を生み出す根拠への信頼がある。物語の存在が、世界や自己をありのままに崇拝する自然崇拝との違いとなる。そのような神話的表象を生み出す根拠に目を向けるとともに、そこから救いを具体化する「阿弥陀仏むが立ち現れることを親鸞は指摘するのである。」
このような視点にははじめて接すると同時に、まだよく理解できないことも確かだ。特に後半部分は理解が出来ていない。
「新たな物語の誕生は、しばしばその時代精神を背景にして、新たな信じゃ総獲得に綱刈っていた‥。」
「親鸞は、『教行信証』で抽象的な思弁を展開している。たしかに、そこには深い宗教哲学の内容が認められる。しかし、その抽象性を補完する感性的な仕組みがなければ、多くの信者を得ることはない。『親鸞伝絵』は、浄土真宗の流布にかけがえのない役割を果たしてきた。」
多分覚如の描いた親鸞の物語によって「浄土真宗」は成り立ったと言えるのだろう。そこにはおそらく『親鸞』はいない。親鸞の物語があるだけである。
昨日よりも涼しい。13時前で22℃ほど。これが平年の気温に近いのではないだろうか。気持ちの良い陽射しである。
午前中は、昨日の作業の続き。退職者会ニュースのおもて面の面積としては87%を越える出来上がり。裏面はまだ手をつけていないのが心配ではあるが、一応予定通りのテンポで作業は進んでいる。今晩もう少し頑張っておもて面はほぼ完成としたいものである。
午前中は、団地のボランティア作業も行われたが、膝を痛めているので、お茶の差し入れをして、作業には加わらなかった。昨日の強風のためにケヤキの細い枝ばかりか直径2cmほどの枯れ枝もかなり散乱していた。
これよりいつものとおり、ティータイム&読書タイム。さて、本日はどの喫茶店に行くか、悩み中。