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Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

夜のウォーキング

2023年10月13日 22時36分05秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 先ほど夜の散歩。団地外周などを一回り、約2500歩ほど。昼間はあまり歩かなかったが、先ほどは風もほとんど感じることなく、外気温も18℃と気持ちよく、歩数は少ないもののウォーキングらしいウォーキングができた。

 明日は団地内のボランティアでの作業予定日。私は膝に問題があるので、作業途中の一服で飲むお茶でも差し入れすることにしている。すでに購入して、冷蔵庫で冷やしている。

 躯体の穴あけ工事について業者から諾否の返事もある。スケジュール帳に予定は書き込まれていないが、ボーッとしているわけにはいかないようだ。
 ということで、明日はいつもより早めの8時くらいには起きて、寝巻から着替えておきたい。
 


「浄土思想」 その2

2023年10月13日 20時53分32秒 | 読書

   

 クーラーの新規取付に伴う躯体への穴あけについては本日見積もりに来た業者は対応できないということで、まだまだ時間がかかりそうである。いろいろと面倒なことになりそうである。

 午後からは横浜駅近くの喫茶店で読書タイム。まずは雨月物語の「菊花の約(ちぎり)」を読み終えてから、昨日に続いて「浄土思想」(岩田文昭、中公新書)の第2章「中国の浄土思想」を読み終えた。
 中国の浄土思想に展開や有り様についてはまったく知らなかったに等しい。今回初めて「善導」の事蹟を知った。
浄土の空間的位置について善導は思索を巡らしている。矛盾する経典の文言について善導は解釈を試みる。迷いの世界とさとりの世界との区別があるので、浄土は俗世を超越するという点では遠くに位置している。しかしその超越は迷いの世界を内に包むもので遠くないのだ、と説明する。善導の浄土観は感覚的なイメージを重要視した素朴な救済観だと思う人もいるかもしれない。善導の思想には理性や知性のみで生きることのできない、有限な身体をもった具体的な人間の救済の哲学がある。人間がこの世界から浄土に行くという超越性とともに、浄土からこの世界に働きかける超越性があるというのである。‥実のところ、有限に人間の全体的な救済を可能にする宗教的地平を開いているのである。いづれにしても、善導の浄土観が日本の浄土思想の大枠となったのである。

 「信」という地点からあまりに遠くいる私は、無量寿経も、観無量寿経も、阿弥陀経もつい現代の論理に合わせて読んでしまう。論理矛盾があったり、経典と違う解釈を見るとそこにこだわってしまいがちである。論理的整合性と「信」とは結びつくことはない。また「衆生」との距離の問題、自分の救済ではなく「煩悩に覆われた凡夫=自分」を出発点とする人間救済のための方便、これに私などは躓いてしまう。現代の言葉でいえば、大衆像をいかにどのように、どのような水準で自分の理念に組み込むことができるか、という自問自答が常に求められる。
 とりあえずはそんなことを自分で再確認しながら、次に進みたい。

 

 

 


電卓はやはり必需品

2023年10月13日 10時32分40秒 | 日記風&ささやかな思索・批評

 昨晩の神奈川県西部の狭い範囲の強い雨は、1時間程で相模湾へ南下しつつ消滅した。横浜市域には雨の区域はかからなかったようだ。被害の報道も目にしていない。横浜市域の雷注意報も3時には解除された。
 朝から乾いた涼しい北風が吹き、陽射しが気持ちいい。

 クーラー設置の下見・見積もりで来訪予定の業者は昼前後に来るとの連絡。午後には出かけられそうである。出かけるといっても特に予定があるわけではない。

 20年近く使用した電卓、キーが元に戻らなくなったり、液晶画面にイレギュラーな表示が出るようになり、昨日新しいものを購入。これまでのメーカーとは違うものを購入したために微妙にキーの配列が違う。スピードを競うのではないので、特に問題は無いが、慣れるまでは少しオロオロしそう。家電量販店の文房具売り場で1000円ほどで購入。電卓は昔と値段はほとんど変らない。機能もそれほど変っていない。
 パソコンの画面上にも電卓を表示でき、テンキーボードで操作できるが、画面を広く使っているときには、不便な場合が多々ある。パソコンを立ち上げていないときもある。やはりキーボードの横に電卓は必要である。

 そろそろ16日(月)の退職者会の幹事会の資料を揃えて準備を始める予定。