Fsの独り言・つぶやき

1951年生。2012年3月定年、仕事を退く。俳句、写真、美術館巡り、クラシック音楽等自由気儘に綴る。労組退職者会役員。

お粗末な「埼玉県虐待禁止条例」始末

2023年10月11日 22時49分32秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 埼玉県議会の自・公の「虐待禁止条例改正案」なるとんでもないものについて、提出した会派が取り下げを表明したという。しかし「説明に不十分さがあり、不安を与えたことを猛省している」ものの、内容や手続きについては「瑕疵は無かったものと思っている」と発言したと報じられている。そして廃案ではないというところがあまりに未練がましい。
 この説明を聞いて、私は怒りを覚えた。「瑕疵は無かった」ということと、「言葉足らずにより不安と心配の声が広がり」ということを並べてみれば、「誤解」した我々の方が悪いとも取れる。
 この「誤解を招いたことをお詫びしたい」というのは国会議員、大臣の「お詫び」で定着してしまった。誤解した国民が悪いと、いわれてそれを垂れ流すマスコミもひどいものである。こんな発言に食らいつかなくて、マスコミの名がすたるというもの。
 今回も、内容や言いわけは突っ込みどころ満載だが、多くの批判で触れられているので省略しよう。

 私の感想は以下のとおり。

 昔、私が学生の頃、政府や大学側の対応に異議申し立てをしたし、また政治課題にも関心を持って学生向けのビラも多く作成した。
 そのときの時代の雰囲気として、学生の主張に多くの場合保守派のマスコミや教授連中や政党から「生活感がない」「理念ばかりが先行して、それで世の中を裁断してしまっている」というものがあった。
 その批判の当否や今は論じないが、最近の地方・国の議員を見聞きするにつけ、実につたなく、現実にはとても通用しない「理念」ならざる理念で、政治に携わろうとし、肝心の市民には向きあっていない。向きあおうとする姿勢を見せない。時代に通用しない理念で市民に説教をしているとしか思えない。

 カルト教団化した保守系の政治家・議員、行政府の長へ、50年以上前の私たちに投げかけられた言葉を、今度は逆に私たちが投げかけなければならない時代になっている。政治家の箍が外れてしまっている。外した象徴的人間はだれか、言わずもがなであろう。そしてとりわけ大切なのは、彼を支えた体制の問題点は何であったか、リベラル派にはその解明が求められている。
 今度の「虐待禁止条例」は「古い家族理念に縛られた家族・家庭像の押し付け」といわれる。実際に子育てで奮闘し、苦労している親の世代から総スカンをくらった。国力の顕著な衰退、貧富の差の拡大、高齢化、地域社会の崩壊、過疎化という時代に処方箋が描けない保守系政治家の無力。現実感のない空論に等しい貧弱な「政治理念」「政治的理想」にしがみついている保守政治家の堕落が浮き彫りになっている。

 私は50年以上経って、世の中が進歩どころかこんなにも後退していることにあきれ果てている。同時にそれを乗り越えられなかったリベラル派の政治力量、理念にも50年前と同様に絶望している。その絶望は当然私自身にも向けられてもいるのだが、今の私の能力では解決の糸口をつかめていない。
 半世紀以上、私はできるだけ生活者としての立場から為政者に言い続けてきた。自分が彼らを乗り越えられなかった半世紀という月日は、とても情けないとしか言えない。それが重く感じる昨今である。
 生活実感に真摯に向きあい、それを基に政治理念を積み上げて時代の課題を見極める。そんな姿勢が政治家にとっての当たり前になってほしいのだが・・・。墓場まで持ち込みたくはないが、そんな思いはかなえられそうもないほど、世界は厳しい事態になっている。

 


求められるバスと地下鉄の新しい棲み分け

2023年10月11日 18時36分38秒 | 思いつき・エッセイ・・・

 本日はかなりくたびれた。そしてこんなことを考えた。

 朝から一家三人のインフルエンザの予防接種の予約、クーラー設置工事の13日の見積もりと下見に伴う申請書類の取り寄せ、親同伴の予防接種、銀行。途中で二人と別れて神奈川大学生協での予約本の受け取り、整形外科でのヒアルロン酸注射・・・・・とバス・タクシー・地下鉄・私鉄をいく九つも乗り継いだ。
 16時過ぎに帰宅して、横になって1時間ほど寝てしまった。家についてみると高々8000歩。それでも足はとてもだるい。

 本日はこんなことがあった。整形外科を訪れるために、長い階段を手摺りを頼りに昇っていたら、同じ手摺りにつかまって降りてくる私よりも年上のご老人とすれ違った。
 最初私が下を向いて歩いていたので気がつかなかった。「すみませんが・・・」と上からの声で慌てて上を見上げた。手摺りにつかまりながらぶつからないように声を掛けて注意をしてくれたのだ。
 私よりも明らかに年上で、しかも足の具合は私よりも悪そう。「ゴメンナサイ」と謝りながら私が横にずれてすれ違った。すれ違う時に、私から「つらい階段ですね」と一声、二人で笑いながらすれ違った。年寄り泣かせ、足の悪い者を泣かせる階段である。
 この駅、エレベーターがあるが、かなり遠回りになるので、少し苦労しても階段を使ってしまう駅である。昇りのエスカレーターは途中まであるが、下りのエスカレーターはそもそもない。

 本日の体験から、以下のように考えてみた。横浜市営地下鉄も開通してからもう半世紀近くになる。当時は問題にならなかった階段ばかりの出入り口、その後少しずつエレベーターやエスカレーターは整備されたものの、狭い敷地と駅舎構造のため物理的に限られた設置しか出来ていない。
 利用する市民の高齢化も著しく進んでいる。この地下鉄は、開通時から通勤をはじめ日常生活に欠かせない私である。その私も歳を取り、足がつらくなった場合のつらさを身をもって体験している。

 地下鉄開通時には地下鉄利用者が増え、バスが減便・路線減となった。しかし地下鉄駅舎のエスカレーター・エレベーターの増設が限界になり、階段がつらい人のバス利用が最近は増えている。団地の中でも、地下鉄に並行して走るバス路線に乗る住民が増えている。
 現在の状況を踏まえて、交通機関のあり様の見直し、地下鉄とバスの新しい棲み分けの方策・施策が必要に思える。


本日から読む本「浄土思想」

2023年10月11日 10時14分40秒 | 読書

 本日から「雨月物語」と並行して読む本を昨晩のうちに本棚から探し出した。
 「弥勒」(宮田登)を読んでいるときに気がついたのだが、意外と日本における法然以前の阿弥陀信仰、浄土信仰の展開や拡大について忘れていることや体系的な知識の不足に気がついた。
 その思いを適えてくれるかくれるかはわからないが、とりあえず入門書的なものを、と思い購入していた「浄土思想 釈尊から法然、現代へ」(岩田文昭、中公新書)を読むことにした。