鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

同窓の女

2024-11-28 | エッセイ

金沢から仙台に転勤したのは、結婚した次の年だった。

転勤して間もなく、郵便局の保険係が自宅に来て妻と雑談をした。

妻が種子島出身だと言うと、その人が「自分のお客さんに、種子島出身の人がいる」と言ったそうだ。

何日かして、その種子島出身の人から電話があった。

なんと、高校の同窓生のS子だった。

次の休日、私と妻はS子の自宅を訪ねた。

S子は高校卒業後関東に就職し、宮城県出身のご主人と結婚して私の近所に住んでいたのだ。

妻は、誰一人知り合いがいない仙台で、同郷の人と出会ったので親しくなり、家族ぐるみの付き合いが始まった。

 

しばらくして、もう一人、種子島出身者との出会いがあった。

実家の近くに住んでいた2歳年上のT江である。

母から、T江が仙台に住んでいることを聞き、会いに行ったのだ。

T江も宮城県の人と結婚し、私の近所に住んでいた。

高校時代のT江は、ミス〇〇といわれる美少女だったが、再会した時は匂うような若奥さんになっていた。

こうして、よく知っている二人と再会し、ミニ種子島会ができて、私たち夫婦の仙台生活は急ににぎやかなものになった。

 

S子は、結婚してしばらくは、宮城県の山あいにある主人の実家で暮らし、種子島とあまりに違う寒さと雪、言葉や風習の違いに、それはそれは苦労したと言った。

彼女もまた、私たちと出会って心強かったのだ。

種子島の海辺の集落で育ったS子は海が好きで、一緒に海水浴に行ったり、貝拾いに行ったりした。

だが親潮が流れるその海は、種子島の暖かい海と異なり、夏でも冷たいことが多かった。

 

運動神経抜群のS子は、高校時代陸上部に所属しており、運動会の短距離走ではいつも先頭を走っていた。

仙台ではママさんバレーをやっており、宮城県代表として全国大会へ出場した。

私はそれをテレビで観戦したが、画面の中で躍動する姿は、普段会っているS子より輝いて見え、誇らしくもあった。

 

私の転勤が決まり、仙台を離れることを告げた時、S子はとてもつらそうな顔をした。

仙台を去ってからは、会うこともめったになくなったが、S子が種子島に帰省する途中、鹿児島の我が家に泊まったりした。

ふるさとから遠く離れた仙台で6年間を共に過ごし、彼女の苦労もそばで見てきた私には、戦友のような思いがする。

 

S子が鹿児島に来た時の記事はこちらです。

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妻の愛した山桜

2022-05-26 | エッセイ

鹿児島市五ヶ別府町の山あいの民家の庭に、樹齢100年を超える山桜の古木があり、毎年見物に訪れている。

庭の隅にあり、家を見下ろして立つその山桜は、毎年3月中頃満開の美しい花を咲かせる。

ご主人に何度かお会いし、この山桜はご主人のおじいさんが植えたものであると教えてくれた。

家の正面にも樹齢30年位の山桜が6~7本あり、これも毎年きれいな花を咲かせるが、これは古木の子であることも聞いた。

庭には様々な花が咲き乱れ、本当に花が好きなご夫婦だと感心していた。

去年の3月には奥様とお会いし、いろいろ話をうかがった。

その中で奥様が、自分はガンであると打ち明けられた。

 

今年の3月、妻とその妹の3人で見物に行った。

カメラマンと音声係の二人が撮影をしており、「NHKです」とあいさつされた。

私に「お話を聞いてもいいですか」と言うので取材を受けた。

山桜の古木をバックに

「このような満開の山桜をご覧になって、どう思われますか」

「桃源郷のようなところだと思っています」

などという会話を撮影された。

妻とその妹も取材を受け、妻は

「元気をもらいますね」

などと答えていた。

「桜のところを歩いてもらえますか」

と言われ、家の前の桜の下を3人で歩く様子も撮影された。

 

その時のことは、夕方のローカル放送の「妻の愛した山桜」という特集で放送された。

ご主人の日常や桜を見に来る人達が映され、私が取材を受ける様子も映された。

そして、奥様が半年前に亡くなられたことを知った。

ご主人が、家の前の山桜は妻が植えたものであると話していた。

奥様は、私に自分はガンであると言った時、もしかして

「この桜を見るのは最後かもしれない」

と思われたのではないだろうか。

ご主人は、これからこの桜の花を見るたびに、奥様のことを想われることだろう。

 

庭の隅の山桜の古木。

 

奥様が植えられた家の前の山桜。

 

取材を受ける妻とその妹。

去年の3月訪れて、奥様と話をした時の記事はこちらです。

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漢字の難しさ

2021-12-22 | エッセイ

日本語の難しさの要因はいろいろあるが、最大の要因は漢字であろう。

まず、漢字は幾通りもの読みがある。

女という字は1字では「おんな」と読む。男女は「だんじょ」であり「じょ」と読む。

ところがこれに老若が付くと「ろうにゃくなんにょ」となり「にょ」と読む。乙女は「おとめ」であり「め」と読む。

「十一月三日は日曜日で祝日で、めでたい日です」

この中に日という漢字が5回出てくるが、順に「か、にち、び、じつ、ひ」と読む。

 

これだけではない。漢字はどう読んでもいいのである。

植物のサルスベリは、樹皮がすべすべしており、猿が滑るという意味だから「猿滑」という漢字を当てるのが妥当であるが、「百日紅」と書き、紅い花が長く咲くという全く別の意味の漢字を当てている。

最近はやりのキラキラネームでは、海と書いて「まりん」、天音と書いて「そぷら」と読ませるなど、その漢字本来の読みでないものが多く、かなを振らないと読めない。

ある文字に幾通りもの読みがある、どう読んでもいいなどというのは、世界広しといえども日本語だけであろう。

 

同音異義語が多いのも漢字の特徴である。

「こうてん」には好転、後天、交点、公転、光点、高点、好天、荒天などがあるが、いい天気(好天)、荒れた天気(荒天)と正反対の意味なのに、どちらも「こうてん」とはまぎらわしい。

好天と荒天なら「好天に恵まれ」のように前後の文脈で見当が付くが、私立と市立などは耳で聞いただけでは区別がつかず、文字を見ないとわからない。

 

新字と旧字の問題もある。

桜井という姓は、旧字の櫻井と書く人も多い。

「さいとう」は、斉藤、斎藤 齋藤、齎藤など実に多く、「さいとう」さんと聞いただけではどの漢字かわからない。

日本の漢字は、世界の言語の中でガラパゴス化しており、日本語を学ぶ外国人の苦労は想像に難くない。

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豆腐とこんにゃく

2021-08-28 | エッセイ

日本料理を代表する豆腐とこんにゃくについて考察してみよう。

豆腐の原料は大豆である。

大豆は、花もきれいであり、実も丸くて愛らしい。

豆腐は、御壁(おかべ)という雅(みやび)な名前でも言われるように、色が白く、木綿や絹にも形容される。

豆腐料理は、生でよし、煮てよし、焼いてよし、揚げてよしと万能選手である。

酢飯と組んで、稲荷寿司という、いい仕事もする。

レシピは何百とあるだろう。

庶民的な食べ物であると同時に、京都では高級料理としても供される。

このように、豆腐は日本料理界のトップスターといっていいだろう。

 

一方、こんにゃくはどうか。

こんにゃくは漢字で蒟蒻と書くが、誰も書けない字である。

こんにゃくの原料はこんにゃく芋であるが、植物のこんにゃくはマムシグサに似ており、新芽はやや不気味である。

同じ芋仲間のじゃがいもやさつまいもは、愛らしさもあるが、こんにゃく芋は黒くごつごつした形で、不細工である。

芋から加工されたこんにゃくも、色が黒くて見栄えが悪い。

豆腐は良質な植物性たんぱく質の食べ物だが、こんにゃくは栄養的にはほぼゼロである。

こんにゃく料理といえば、おでんや煮物がほとんどである。

おじさん好みの食べ物であり、おしゃれな食べ物とはいいがたい。

 

これではいけないと、こんにゃくは考えた。

栄養がないのを逆手にとって、ノンカロリー食品、ダイエット食品として売り出したのだ。

飽食の国ニッポンではこれが女性に受け、こちら方面に活路を見出しているようだ。

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ホームズと半七

2020-05-04 | エッセイ

名探偵といえば、多くの人がホームズと言うだろう。

このように、シャーロック・ホームズは、探偵の元祖にして、いまだにスーパースターである。

ホームズシリーズの楽しみ方は、探偵としてのホームズの魅力や推理自体を楽しむ他に、遠いイギリスの、しかも100年以上昔の風物や風俗を知ることにもある。

何しろ、ホームズはハンサムという二輪馬車で移動するのだ。

 

日本の探偵もので、ホームズシリーズに匹敵するものとして、私は岡本綺堂の「半七捕物帳」を挙げたい。

事実、綺堂はホームズにヒントを得て、これを書いている。

一話完結の短編小説であることも、ホームズシリーズと同じである。

物語は、若い「わたし」(綺堂自身)が、明治20年代から30年代頃、老人となった半七から、岡っ引きとして活躍した捕物の話を聞く、という体裁となっている(実際の執筆は大正6年以降)。

ワトソンがホームズの事件簿を書くのと似ている。

最後に、半七が「わたし」になぞ解きを言って聞かせるという構成は、ホームズがワトソンになぞ解きをするのと同じである。

 

半七捕物帳の楽しみ方は、推理を楽しむ以外に、江戸時代末期の江戸の地理、歴史、風物、風俗を知ることにある。

岡本綺堂は明治5年生まれだから、物心ついた時にはまだ江戸の名残が残っており、周りには江戸時代を知る人がたくさんいた。

このため、まるで綺堂がその時代に生きていたかのように、生き生きと詳細に江戸時代を描いている。

江戸時代考証の貴重な資料でもある。

 

ホームズも半七も犯罪がテーマだから、ユーモアとは異なるが、少しユーモアが感じられる作品もある。

ホームズシリーズに「赤毛組合」というのがある。

見事な赤毛の人しか入れない赤毛組合というのがあり、ある赤毛の男が勧誘され、事務所に詰めて百科事典を書き写すという簡単な仕事で高給がもらえる。

だが、赤毛組合というのは真っ赤な嘘で、ある目的のために男に家を空けさせることだった。

 

半七捕物帳に「廻り灯籠」という作品がある。

普通は岡っ引きが犯罪者を追いかけるものだが、この作品は逆に犯罪者が岡っ引きを追いかけ、岡っ引きが逃げるという話である。

人間は追いかけているようで、逆に追いかけられるというのを、半七が廻り灯籠に例えて話をする。

 

それにしても、今も昔も、犯罪の動機の多くが欲やうらみであり、人間はこれらの煩悩から逃れられないものだと思うことである。

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夏休み

2019-07-06 | エッセイ

大学1年の夏休み、種子島へ帰省する私に、部活の先輩が

「種子島へ遊びに行きたい」

と言った。

一足先に帰省した私の家に、2年生の先輩3人がやってきた。

犬城(いんじょう)海岸へ、キャンプに行くことにした。

犬城は種子島の東海岸にあり、馬立の岩屋という洞窟がある風光明媚な海岸である。

私の家からは遠いので、建設業の伯父さんからトラックを借りて行った。

海で泳ぎ、夜は洞窟で寝た。敷物などなく、岩の上にじかに寝た。

先輩は、鹿児島から食料を持ってきたが、種子島はろくな店もない小さな島と思ったらしく、厚揚げなどの生ものもあった。

そんなものが夏の暑い日にもつわけもなく、多くは捨ててしまった。

 

次に、馬毛島へキャンプに行った。

馬毛島は、種子島の西にある小島で、今、米軍訓練基地候補地として話題になっている島である。

当時は住民が住んでおり、小中学校もあった。

港に着くと、トビウオ漁の漁師の藁葺き小屋が並んでおり、周囲にはソテツ林があった。

まるで、南洋の小島のような風景だった。

丘の頂上へ行くとコンクリートのトーチカがあり、そこから360度のパノラマを眺めた。

島を歩いていると、高校の寮で一緒だった1年先輩に会った。

先輩の父親が、馬毛島の学校の先生をしており、夏休みで帰省していたのだ。

先輩に頼んで、小学校に泊まれるよう交渉してもらった。

漁師小屋にでも潜り込もうかと考えていた私たちは、小学校に泊まることができた。

 

次に、屋久島へ登山に行った。

営林署に勤めるいとこが山に住んでおり、そこに1泊して、宮之浦岳に登り、縄文杉やウィルソン株を見た。

食料だけは持参したが、登山靴などはもちろんなく、まるでハイキングに行くような軽装だった。

今、縄文杉の根元には行けないが、当時はそんなことはなく、根元に行って杉を触った。

安房の町に下りてきて、叔母の家に泊めてもらった。

いとこの家も叔母の家も小さな家で、着の身着のままの雑魚寝であった。

むさくるしい男4人が押し掛けて、さぞ迷惑だったのではないかと思う。

 

今思うと、かなり行き当たりばったりで、人の好意に甘える旅だったが、このような旅は若い時しかできないであろう。

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金沢の女

2019-01-28 | エッセイ

金沢に住んでいた時のことである。

ゴールデンウイークに、兄の結婚式で種子島へ帰省するため、金沢駅から特急列車に乗った。

大阪まで行き、そこから種子島まで飛行機で行くのだ。

車内は自由席で、空席がたくさんあった。

若い女性が乗り込んできたが、

「ここ空いていますか」

と言って、私の隣に座った。

私は本を読んでいたが、

「空席はたくさんあるのに、わざわざ私の隣に座ったということは、話がしたいのではないだろうか」

と思い、本を閉じて

「どちらまで行くんですか」

と話しかけた。

彼女は、待っていましたとばかりに話し出した。

 

彼女は、金沢の和菓子屋の娘で、この春、市内の進学校を卒業したばかりだった。

金沢大学と京都外国語大学に合格したが、後者を選んだと言った。

連休で帰省して、京都へ帰るところだったのだ。

高校時代や、始まったばかりの大学生活について話をした。

そして、将来は語学を生かして、マスコミで仕事がしたいと言った。

 

私が、兄の結婚式で種子島へ帰省する、と言うと

「次はあなたの番ですね」

と笑いながら、年上の私をからかうように言った。

おしゃべりは、彼女が降りる京都駅まで続いた。

私は、聡明で明るく、社交的で物おじせず、キラキラした目で夢を語る彼女なら、将来はきっと、テレビ局、新聞社、出版界などのマスコミで活躍する女性になるだろう、と思いながら彼女と別れたのだった。

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バイトの思い出(7)

2018-10-10 | エッセイ

学生時代、ネオン屋のアルバイトをしたことがある。

ネオンを取り付けたり、修理したりする仕事の手伝いで、仕事場は鹿児島の繁華街天文館の飲み屋街だった。

私は、キャバレーやクラブのボーイのアルバイトが長く、夜の天文館はよく知っていたが、昼間の飲み屋街は、華やかな夜とは対照的に、うら寂しく寒々としていた。

作業していると、下の道路を黒服の男が二人歩いていた。

ネオン屋の親父は

「〇〇一家の連中だよ」

と、やくざであることを教えてくれた。

仕事柄、天文館の裏社会にも詳しいようだった。

 

鹿児島のデパート山形屋でアルバイトをしたことがある。

仕事は、催し物会場の設営だった。

山形屋では、文化的な催しを定期的に開催するため、その設備や展示品を設営するのである。

店が閉まった夜の8時頃からの仕事だった。

出入り業者が裏口から出入りしていた。

夜のデパートは、昼間の喧騒や華やかさとは対照的に、暗くて静かだった。

 

私は、昼間の山形屋にもよく行ったが、この時は堂々と正面入口から入った。

エスカレーターガールが、階段の上段に立ち慇懃にお辞儀してくれた。

貧乏学生だった私は買い物することもなく、目的は催し物会場だった。

無料で、いろいろな催しを見ることができた。

今でも覚えているのは、横井庄一展である。

グァム島から帰還した元日本兵、横井さんのジャングル生活が再現され、植物の繊維で作った洋服が展示されていた。

横井さんは仕立て屋だったので、その洋服は精巧だった。

 

このように、学生時代は山形屋に貢献しなかった私だが、今は、妻が会員になって貢献している。

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円率

2018-07-14 | エッセイ

小学生のとき、次のような文を読んだことがある。

ある小学生の理科の自由研究に関する文で、テーマは

「石は、川の上流から下流に行くに従って、どのように丸くなるのか」

というものだった。

川の上流から下流までたどって、石を拾ってくる。

石の丸さの程度を、お兄さんに教えてもらって「円率」という数値で表し、下流に行くに従って丸くなる過程を実証したのである。

 

ところで、円率とはなんだろう。

その文には、円率の具体的な式は書いていなかったし、私は円率なるものを習ったことがない。

おそらく、図形の面積と周長の関係で決まる値だと考えられる。

ネットで調べると、「円形度」というのがあり、これが上の円率に相当するものと思われる。

円形度=4πS÷L2    (Sは面積、Lは周長)

であり、やはり面積と周長の関係で決まる数値である。

真円が円形度=1.0であり、他の図形は1.0より小さくなる(正方形は0.79)。

 

その文には、石の面積と周長をどのように測定したのか書いていなかったが、小学生でもできる方法を考えてみよう。

まず、紙に石を置き、細い筆記具を垂直に立てて石の周囲をなぞる。

面積を求めるには、紙に書いた図形に小さな正方形の方眼をかぶせ、図形の中の正方形の数を数える。

図形の周辺は欠けた正方形になるが、その数の半分を前の数に加える。

その総数に正方形の面積をかければ図形の面積が求まる。正方形が小さいほど真の面積に近い。

周長を求めるには、紙に写した形に沿って、石に糸を巻きつけ、その長さを測ればよい。

 

それにしてもこの小学生は、発想といい、手法といい、高度な自由研究をやったと思わざるを得ない。

石の丸さの程度を、見た目ではなく数値で評価したところがえらい。

大人になったら、自然科学系の学者になったのではないだろうか。

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京都の女

2018-01-30 | エッセイ

就職して最初の赴任地は滋賀県だった。

その夏、先輩に誘われて、乗鞍岳に夏スキーに行った。

といっても、南国育ちの私は、スキーなどやったことはもちろん、見たこともないので、観光で付いて行ったのだ。

山頂付近には、7月だというのに雪が残っていた。

先輩たち3人は、駐車場付近から斜面を滑り降りていった。

 

私はしばらくそれを見ていたが、一人で山頂に登ることにした。

21~22歳くらいの若い女性が登っていたが、私に

「お一人ですか」

と声をかけてきた。

私は、4人でスキーに来たが、自分は滑れないので山に登っている、と答えた。

それをきっかけに、二人で話しながら山頂を目指した。

彼女は京都の人で、一人旅だと言った。

雅やかな京都弁を話す女性は、鹿児島から出てきたばかりの田舎者の私には、少しまぶしく感じられた。

山は、夏だというのに軽装では寒いくらいだった。

私は、持っていたヤッケを彼女に着せてやった。

そして、乗鞍岳山頂で、赤いヤッケ姿の彼女の写真を撮った。

 

それから何日かして、思いがけなく、会社にいた私に彼女から電話があった。

雑談で会社名を言ったので、彼女はそれを覚えていて、電話番号を調べて電話してきたのだ。

「もうすぐ祇園祭があるので、見に来ませんか」

という誘いだった。

 

約束の日の夕方、京都駅で待ち合わせ、彼女の案内で祇園を散策してから、祇園祭を見た。

私は、京都は初めてで、お上りさん状態だった。

古い町並みの祇園と鴨川の流れ、宵闇に浮かび上がる豪華な山鉾。

むせかえるような人いきれの中で、京都の女と二人でそれを見ている・・・

私は、そんな状況に飲み込まれ、ぼおっと酔ったような気分になった。

京都祇園祭を見たのは、これが最初で最後だった。

その後、彼女との間は進展することもなく、それっきりになった。

 

ちなみに私は、先輩の指導で、その年の冬からスキーを始め、デビューは伊吹山スキー場だった。その後、金沢、仙台、長野と転勤先でも楽しんだ。

スキー道具は鹿児島まで持ってきたが、スキー場に行く機会がないまま時は過ぎ、やがて処分してしまった。

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