2月24日に紹介した、姶良町の石橋の近くにある史跡を紹介します。
橋は、石橋の紹隆寺橋です。
この橋を渡ったところに、越前(重富)島津家墓地があります。
越前島津家墓地。
ここには、越前島津家の菩提寺であった紹隆寺がありましたが、廃仏毀釈で廃寺となり、墓地だけが残りました。
墓地内にある招魂石。
この碑は、明治10年の西南戦争に重富から従軍し、戦死した人の霊を慰めるため、明治12年に建立されました。
重富からの従軍者は166名、戦死者は61名です。
重富漁港近くの、祗園橋の近くにある御石山の石碑です。
案内板によると、この碑の由来は次のとおりです。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津歳久は病気を理由にこれを拒みました。
そこへ梅北国兼の乱が起こり、反乱軍の中に歳久の家臣が多くいたため、秀吉の怒りを買い、兄義久は秀吉から歳久の首を差し出すよう命じられました。
歳久は、鹿児島から領地の宮之城へ行く途中、追手に追われて自害し、ここで遺体を清められ、首は肥前名護屋城の秀吉に届けられました。
親子、兄弟で殺しあわなければならなかった戦国時代は悲惨でしたね。
橋は、石橋の紹隆寺橋です。
この橋を渡ったところに、越前(重富)島津家墓地があります。
越前島津家墓地。
ここには、越前島津家の菩提寺であった紹隆寺がありましたが、廃仏毀釈で廃寺となり、墓地だけが残りました。
墓地内にある招魂石。
この碑は、明治10年の西南戦争に重富から従軍し、戦死した人の霊を慰めるため、明治12年に建立されました。
重富からの従軍者は166名、戦死者は61名です。
重富漁港近くの、祗園橋の近くにある御石山の石碑です。
案内板によると、この碑の由来は次のとおりです。
豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、島津歳久は病気を理由にこれを拒みました。
そこへ梅北国兼の乱が起こり、反乱軍の中に歳久の家臣が多くいたため、秀吉の怒りを買い、兄義久は秀吉から歳久の首を差し出すよう命じられました。
歳久は、鹿児島から領地の宮之城へ行く途中、追手に追われて自害し、ここで遺体を清められ、首は肥前名護屋城の秀吉に届けられました。
親子、兄弟で殺しあわなければならなかった戦国時代は悲惨でしたね。