鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

バイトの思い出(4)

2013-04-24 | エッセイ

学生時代のアルバイトのうち、一番多い職種は、喫茶店やレストランのウェイター、キャバレーやクラブのボーイだった。

金がなくなると、これらの店で1~2ヶ月働き、少し溜まると辞める、ということを繰り返した。

今回は、クラブの思い出である。

 

クラブは、ママさん、マネージャー、ホステス10人位、バーテン、厨房の女性、ボーイで構成されていた。

ホステスの出勤時間は6時半だったが、遅刻には厳しく、1分100円の罰金制度があった。

ただし、同伴出勤といって、お客と一緒に出勤するときは遅れてもよかった。

仕事の前に、黒服のマネージャーがホステスに接客態度などの訓辞をした。

 

新人ホステスが入ることもあったが、ピチピチの若い女というわけではなく、離婚した子持ちの女だったりした。

何の特技も資格もない女が、子供を抱えて一人で生きていくには、水商売しかなかったのだろう。

たまに、ホステス同士の喧嘩もあった。

客の前ではにこにこしていたが、店が終わると、涙を流して言い争っていることがあり、夜の蝶の厳しさを垣間見た。

 

ある晩、なじみの客であるホテルのオーナーが、私を席に呼んだ。

「君は接客態度がいい。私のホテルのフロントマンとして来てくれないか」

という誘いだった。

私は、自分が接客業に向いているなどとは思ってもいなかったので、これは意外だった。

もちろん、丁寧にご辞退した。

 

有名人が来ることもあった。

大相撲鹿児島巡業の夜、先代貴ノ花(後の藤島親方。若貴のお父さん)が、他の力士と一緒に、クラブのオーナーに連れられて来た。

貴ノ花は初代若乃花の弟であり、人気絶頂で角界のプリンスだった。

小兵といわれていたが、一般人と比べるとずいぶん大男だった。

寡黙であり、他の力士が酒を飲んで騒いでいる中で、黙って酒を飲んでいた。

その横顔は、どこかさびしげに見えた。

晩年の貴ノ花は、子供同士の確執、自分の離婚騒動などで、幸せそうには見えなかった。

そんな騒動を聞くにつけ、若い日のさびしそうな表情を思い出すのだった。

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露天風呂

2013-03-22 | エッセイ

鹿児島県の三島の一つ硫黄島(他の二つは竹島、黒島)に行ったことがある。

目的の一つは、東温泉という露天風呂に入ることだった。

港から1時間ばかり歩いて東温泉に行った。

島の南の岩場の海岸に、その露天風呂はあった。

丸い浴槽が3つ並んでおり、一番上が源泉で順次下に流れ落ちていた。

私達夫婦以外に人はいなかった。

だから裸で入ってもよかったのだが、いつ人が来るかわからないので、一応水着を着て入った。

一番上の源泉は熱くて入れず、真ん中の湯加減がよかったので、ここに入った。

強酸性の温泉で、肌がぴりぴりするようだった。

目の前の岩場に波が砕け落ちていた。

大波のときは、露天風呂も波をかぶるそうだ。

屋久島を遠望できるのだが、このときはかすんで見えなかった。

東シナ海を眺めながら入る、野趣あふれる豪快な露天風呂だった。

 

宮城県に住んでいたとき、家族で鬼首温泉に行ったことがある。

ここは間欠泉で有名な温泉だ。

定期的に噴出する間欠泉を見学して、周囲を散策していると、露天風呂があった。

誰も入っている人はいなかったが、私は素裸になって露天風呂に入った。

広い露天風呂を一人貸切で入るのは実に気持ちがよかった。

だが、まもなく風呂の周囲を観光客がぞろぞろと散策してきた。

ここも散策コースになっているのだった。

もちろん、女性客も多い。

皆、私の入浴姿を、もの珍しそうに眺めながら散策している。

私は小さくなっていたが、人が途切れるのを待って、早々に風呂から上がったのだった。

 

硫黄島の東温泉。手前が源泉。

 

私たち夫婦の貸切だった。

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余呉湖

2013-02-24 | エッセイ

高校生のとき、友達と二人で「湖の琴」(うみのこと)という映画を観にいったことがある。

水上勉原作の文芸作品映画だった。

 

若狭の貧農の娘、栂尾(とがのお)さくは、琵琶湖の北にある余呉湖のほとりに、糸とり女としてやってきた。

そこは三味線糸や琴糸の産地で、糸は余呉湖の水で洗われるから、いい音色を出すといわれていた。

さくは、宇吉という同郷の同僚と将来を誓う仲になっていたが、宇吉は兵役にとられていった。

そこへ、桐屋紋左衛門という長唄の師匠が糸とり見学に来て、観音様のようなさくの美しさに打たれ、三味線の弟子として京都に連れて行くことになるのだが、それが悲劇の始まりだった・・・

 

主人公のさくを演じたのは佐久間良子であり、彼女の美しさに魅せられた友達は、しばらく「さくちゃん、さくちゃん」と言っていた。

私は原作も読み、宇吉がさくの亡骸を背負って沈んだという余呉湖を、いつか観てみたいものだと思った。

 

その機会は、意外に早くやってきた。

就職して最初の赴任地は滋賀県だった。

私は、琵琶湖の東岸にある美しい城下町彦根に住んだ。

ある年の晩秋、私は余呉湖を訪れた。

当時つきあっていた女性と一緒だった。

余呉湖は、広大な湖である琵琶湖の陰に隠れたような、ひっそりとした小さな湖だった。

周囲の山を水面に映したその湖は、小説や映画の印象があるせいか、いくぶん陰鬱に見えた。

湖畔を歩きながら、私は彼女に「湖の琴」の小説や映画について話をした。

彼女は彦根に住んでいたが、石川県七尾の生まれで、さくと同じ北陸の女性だった。

私がまだ見たことのない七尾や能登半島の話をしてくれた。

 

その後曲折があって、彼女とは別れた。

まもなく、私は転勤を命じられた。

転勤先は石川県だった。

しかも、最初に与えられたのが七尾の仕事であり、金沢から七尾に通う日々が続いた。

私は、人生の巡り合わせの妙というものを感じないわけにはいかなかった。

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青春の旅

2013-01-26 | エッセイ

大学2年の夏休み、九州1週の一人旅をした。

私の中学では、3年生の修学旅行で九州旅行をするのが慣例だったが、その年は台風で甚大な被害を受け、親に負担をかけられないというので中止になった。

このため、私は鹿児島以外の九州を見たことがなく、ぜひ見てみたいと思ったのだ。

 

貧乏旅行だったので、宿泊にお金はかけられなかった。

福岡では、九州大学の学生寮に行き、1泊100円で泊めてもらった。

私も寮にいたので、そういう制度があることを知っていたのだ。

寝るのは、集会所などの和室の共同スペースであり、そこにいると、学生が自分の部屋に誘ってくれた。

鹿児島の甲南高校出身の3年生だった。

同室の寮生は皆帰省しており、彼一人が残っていた。

同じ鹿児島県人ということもあり、焼酎を飲みながら遅くまで語った。

本当はいけないのだが、空いているベッドに寝ていいというので、そこに寝た。

長崎では、平和公園、グラバー邸、眼鏡橋などの市内観光をして、長崎大学の寮に泊り、夜は稲佐山から夜景を眺めた。

 

当時は、若者の旅行ブームのときであり、リュックを背負って旅をする「カニ族」などという言葉があった。

このときも、多くの若者の旅行者がいた。

中央大学3年生の女子学生と知り合い、雲仙から熊本まで一緒に旅をした。

サングラスをかけた都会的な雰囲気の女性だった。(サングラスを頭に載せた彼女の写真が、私の古いアルバムに貼ってある。)

当時、私の周りには、ファッションでサングラスをする女性などおらず、東京の女は垢抜けていると思った。

 

阿蘇では、関西の私立大学2年の男と知り合いになった。

彼は、奈良○○ホテルの御曹司であり、ぼんぼんだった。

種子島育ちの貧乏学生の私とは対照的だったが、そんな彼が、なぜか私と一緒に旅をしたいと言い、自分はすでに済ませていたにもかかわらず、私の阿蘇観光につき合ってくれた。

一緒に別府まで行った。

私の宿が決まっていない、と言うと、自分の泊るホテルに泊ろう、と言う。

ホテル代は4千円だった。当時、安い宿なら千円以下で泊れた時代である。

その安宿代さえ節約している私にとって、4千円の出費は痛かったが、なけなしの金をはたいてホテルに泊った。

おまけに、夜は温泉街でストリップ見学につき合わされた。

 

別府観光をした後、彼と別れ、私は宮崎に向かった。

寮で同室の1年先輩が、宮崎市の実家に帰省していたので、そこに泊めてもらった。

ここでは御両親の歓迎を受け、豪華な夕食をご馳走になった。

あくる日は、先輩の案内で宮崎県内を見て回った。

別府での散財とは逆に、宮崎では1銭も使わず観光できたのだった。

 

このような旅は、今、したいと思ってもすることができない。

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ハ行の悲しみ

2012-12-26 | エッセイ

以前、五十音表の謎というエッセイを書いたが、五十音表についてもう少し考えてみたい。

 

ア行は、「俺たちは母音で、お前たち子音とは格が違うのだ」とばかりに先頭に君臨している。

カ行は、はっきりとした音であり、かっきり、きちんと、きびきび、くっきりといった印象がある。

ラ行は、ランラン、ルンルンと明るく楽しい響きがある。

 

それに比べて、ハ行はどうだ。

はひふへほ、と発音してみてください。

なんとも力が入らず、へなへなとなりそうだ。

「ハー」はため息であり、「ヒー」は悲鳴、「フー」はへばった時に出す音である。

特にひどいのが「へ」である。

「へ」と聞いて真っ先に思い浮かぶのが「屁」である。

「へへへ」と笑うのは卑屈で、「へへっ」は平伏するときに、「へっ」は小馬鹿にするときに出す声である。

へぼ、へま、へた(下手)、へん(変)、へっぴり腰など、ろくな言葉がない。

「へ」は印象が悪い音なので、元号が平成に変わるとき、反対する意見があったそうだ。

 

このように、ハ行は人間に快く思われていない悲しい行なのである。

唯一、末子の「ほ」が、「ほほほ」と色っぽく笑い、ほめる、ほれる(惚れる)、ほっとするなど、プラスイメージの言葉が浮かぶのが救いである。

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バイトの思い出(3)

2012-11-14 | エッセイ

学生時代は、貧乏学生だったのでアルバイトに明け暮れ、経験した仕事は20を超える。

学生アルバイトでは、その職業を理解したなどとは言えないが、一断面を覗くことくらいはできた。

 

鹿児島市郊外にある花火工場でアルバイトをしたことがある。

工場内では、打ち上げ花火用に、球状の入れ物に丸い火薬を詰める仕事をしていたが、アルバイトにはそんな難しい仕事はやらせない。

私がしたのは、仕掛け花火作りだった。

仕掛け花火は、さまざまな形を表現する花火であり、ナイヤガラの滝や富士山などというのがあった。

木枠に、決められたとおりに火薬の入った線を張り巡らせ、固定していく。

真夏の炎天下に、工場の庭で作業した。

 

湯之元温泉の花火大会に行った。

今は、打ち上げ花火は電気で点火し、間隔をコンピューターで制御するそうだが、当時は花火師が打ち上げ用の筒に次々と火をつけていった。

私が作った仕掛け花火も、さまざまな形をきれいに浮き上がらせていた。

自分が作った花火を眺めるという、貴重な体験をしたのだった。

 

その後しばらくして、その花火工場で爆発事故があり、死者が何人か出た。

私は、「自分がアルバイトしているとき爆発があったら・・・」と、思わずぞっとしたものだった。

 

霧島の牧場で、泊り込みのアルバイトをしたことがある。

草刈りの手伝いだった。

草刈りと、草を束ねるのは機械で行い、それをトラックに積み込む仕事だった。

これも真夏の仕事だったが、高原のため頬に当たる風が気持ちよかった。

この牧場では、競走馬を飼育しており広い馬場があった。

夕方仕事が終わってから、乗馬をさせてもらったが、広大な馬場を駆けるのは実に爽快だった(当時、私は馬術部にいて乗馬ができたのだ)。

 

夜は、牧場主の奥さんの手作りの食事をご馳走になった。

このとき、生まれて初めて食べたものに、鶏の刺身があった。

当時、種子島の実家では、鶏を生で食べる習慣がなかったのだ。

生で食べることに抵抗があり、このときはあまりおいしいと思わなかった。今は大好きである。

食事が終わり、庭に積まれた干草の上に寝転んだ。

高原の澄み切った夜空に満天の星が輝いていた。

乾燥した草の香りが心地よく、昼間の疲れと焼酎の酔いで、いつしか眠りに落ちていった。

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反対のことわざ

2012-08-28 | エッセイ

ことわざの中には、正反対の意味のものが多い。

 

「瓜の蔓に茄子(なすび)はならぬ」

血は争えないからなあ、と思うと

「鳶(とんび)が鷹を産む」

突然変異ということもあるからな。

 

「渡る世間に鬼はなし」

世の中には親切な人もいて、何とかなっていくものだよな、と人を信じる気になると

「人を見たら泥棒と思え」

と、人を信じてはいけないと教える。

 

「栴檀(せんだん)は双葉より芳し」

才能がある奴は小さいときから違うものだな、と凡庸な子供だった我が身をあきらめると

「大器晩成」

と、救われるようなことわざもある。まあ、私の歳になったら、このことわざも意味がないが。

 

「善は急げ」

と言うから急いでやろうとすると

「せいてはことを仕損じる」

と、ゆっくりやれと言う。

 

「一石二鳥」

とうまい話もあれば

「二兎を追うものは一兎をも得ず」

と戒める。

 

「初めが肝心」

そう、何事も最初が大事だよな、と思うと

「終わりよければ全てよし」

と、最初はどうでもいいようなことを言う。

 

「立つ鳥跡を濁さず」

立ち去るときはきちんとしていくことが大事だな、と思うと

「旅の恥はかき捨て」

とも言う。

 

「武士は食わねど高楊枝」

と、やせ我慢をして言ったかと思うと

「腹が減っては戦が出来ぬ」

プライドだけでは生きていけないからな。

 

これらのことわざ、一方が正しくて片方は間違い、というものではない。

人は、白黒に分けられるほど単純なものではないからだ。

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五十音表の謎

2012-06-30 | エッセイ

「あいうえお、かきくけこ」

という五十音表がある。

日本語を学ぶとき、最初にお世話になるものである。

一見、完璧に見える表だが、この表にも謎がある。

文字の配列に関する謎である。

 

最初の行が「あいうえお」なのは理解できる。

母音であり、他の子音と区別されるからである。

ローマ字では、子音がka、ki、ku、ke、koと2字なのに対し、母音はa、i、u、e、oと1字であり、優位性は明らかである。

 

最初に「あ」が来ているのは、まあわかる。

人が驚いたときや感動したときなどに、自然に発する音であり、響きも明るい。

だが、そのあとの配列はどうやって決まったのだろうか。

発声練習で「あえいうお」というのがあるが、これは口を大きく開いた状態からすぼめた状態へ変化している。

だが「あいうえお」には、どのような規則性があるというのだろうか。

「い」は、「俺はいろは歌のトップだからな」といって2番目にもぐりこんだのだろうか。

 

さらに謎なのは、子音の配列である。

「かさたなはまやらわ」というのは、どんな理由で順番が決まったのだろうか。

考えられるのは、言葉の数の多い順番である。

「わ」行の言葉は実質的に「わ」しかないから、数は少なく最後に押しやられている。

手元の国語辞典から、数の多い順番に並べると、「かさはたまならやわ」であり、必ずしも数の多い順になっていない。

 

五十音表では、文字たちが配列の順番を巡って、せめぎあっているかも知れない。

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童話

2012-05-24 | エッセイ

最近、童話を30篇ばかり読んだ。

一房の葡萄(有島武郎)、赤い蝋燭と人魚(小川未明)、ごん狐(新美南吉)、よだかの星(宮沢賢治)、片耳の大鹿(椋鳩十)、岡の家(鈴木三重吉)等等。

すでに読んだことがあるのもあれば、初めて読むのもある。

与謝野晶子、菊池寛、川端康成の童話など、こんな人も童話を書いていたのか、というのもあった。

 

「一房の葡萄」は、友達の絵具を盗み、それが級友にばれて悩む少年を、若い女の先生が優しく、しかも的確に指導する。

窓辺に伸びた葡萄を一房、少年に渡す場面が、この物語を美しく印象深いものにしており、やはり名作童話だと思う。

 

「赤い蝋燭と人魚」は、人魚が絵を描いた赤い蝋燭がお宮に灯って海の安全を守り、全体が幻想的な童話である。

だが、人間が人魚にひどい仕打ちをしたことから、町はさびれ、やがて消えていくという悲しい結末を迎える。

 

「片耳の大鹿」は、屋久島の大自然を舞台にして、人間と野生動物の交流が描かれる。

自分も、屋久島を何回となく縦走し、鹿に出会ったことがあるから、より深く心に入ってくる。

人間と動物の交流といえば、宮沢賢治の「なめとこ山の熊」もそうである。

こちらはもっと切実に、猟師の小十郎と熊との、命のやり取りを描いている。

 

童話は、もとより子供のために書かれた作品であるが、大人が読んでも、子供の頃とは違った感じ方があったり、新しい発見があったりして、たまに読むのもいいものだと思った。

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野菜一家

2012-04-30 | エッセイ

地中で暮らす野菜一家がいる。

母親は大根。

色が白く、ふっくらした豊満な体で、実に働き者である。

煮物によく合い、おでんでは主役級である。

風呂吹き大根では、堂々一品で仕事をしている。

大根おろしやなますというふうに、生でもおいしい。

しなびても、たくあんとなって漬物界のトップに君臨している。

皆に愛される日本のお母さんである。

 

父親はゴボウ。

背は高いが、ガリガリにやせており、色は黒く貧相である。

筑前煮などの煮物関係で仕事しているが、主役になれず印象は薄い。

唯一、単独で仕事しているのが、きんぴらごぼうである。

食物繊維が多く、消化関係でいい働きをしている。

 

長男はカブ。

色白で母親似だが、丸々と太っている。

母親ほど働き者ではない。

主に漬物関係で仕事をしている。

石川県では、ブリと組んで、かぶら寿司といういい仕事をしている。

 

長女はニンジン。

他の三人が割と地味なのに対し、赤い衣装を着て派手である。

個性が強く、子供たちにはあまり人気がない。

煮物関係のほか、母親とペアでなますという仕事もする。

それから、他の三人には出来ない仕事をする。

キャロットジュースという飲料関係である。

性格が派手なだけあって、水商売が似合うのであった。

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