鹿児島の自然と食

鹿児島の豊かな自然(風景、植物等)、食べ物、史跡を紹介します。

青春の旅

2013-01-26 | エッセイ

大学2年の夏休み、九州1週の一人旅をした。

私の中学では、3年生の修学旅行で九州旅行をするのが慣例だったが、その年は台風で甚大な被害を受け、親に負担をかけられないというので中止になった。

このため、私は鹿児島以外の九州を見たことがなく、ぜひ見てみたいと思ったのだ。

 

貧乏旅行だったので、宿泊にお金はかけられなかった。

福岡では、九州大学の学生寮に行き、1泊100円で泊めてもらった。

私も寮にいたので、そういう制度があることを知っていたのだ。

寝るのは、集会所などの和室の共同スペースであり、そこにいると、学生が自分の部屋に誘ってくれた。

鹿児島の甲南高校出身の3年生だった。

同室の寮生は皆帰省しており、彼一人が残っていた。

同じ鹿児島県人ということもあり、焼酎を飲みながら遅くまで語った。

本当はいけないのだが、空いているベッドに寝ていいというので、そこに寝た。

長崎では、平和公園、グラバー邸、眼鏡橋などの市内観光をして、長崎大学の寮に泊り、夜は稲佐山から夜景を眺めた。

 

当時は、若者の旅行ブームのときであり、リュックを背負って旅をする「カニ族」などという言葉があった。

このときも、多くの若者の旅行者がいた。

中央大学3年生の女子学生と知り合い、雲仙から熊本まで一緒に旅をした。

サングラスをかけた都会的な雰囲気の女性だった。(サングラスを頭に載せた彼女の写真が、私の古いアルバムに貼ってある。)

当時、私の周りには、ファッションでサングラスをする女性などおらず、東京の女は垢抜けていると思った。

 

阿蘇では、関西の私立大学2年の男と知り合いになった。

彼は、奈良○○ホテルの御曹司であり、ぼんぼんだった。

種子島育ちの貧乏学生の私とは対照的だったが、そんな彼が、なぜか私と一緒に旅をしたいと言い、自分はすでに済ませていたにもかかわらず、私の阿蘇観光につき合ってくれた。

一緒に別府まで行った。

私の宿が決まっていない、と言うと、自分の泊るホテルに泊ろう、と言う。

ホテル代は4千円だった。当時、安い宿なら千円以下で泊れた時代である。

その安宿代さえ節約している私にとって、4千円の出費は痛かったが、なけなしの金をはたいてホテルに泊った。

おまけに、夜は温泉街でストリップ見学につき合わされた。

 

別府観光をした後、彼と別れ、私は宮崎に向かった。

寮で同室の1年先輩が、宮崎市の実家に帰省していたので、そこに泊めてもらった。

ここでは御両親の歓迎を受け、豪華な夕食をご馳走になった。

あくる日は、先輩の案内で宮崎県内を見て回った。

別府での散財とは逆に、宮崎では1銭も使わず観光できたのだった。

 

このような旅は、今、したいと思ってもすることができない。

コメント (12)
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