≪ヴェルツブルク≫
その後、西へ100km離れた町、ヴェルツブルクに行った。この町はロマンチック街道の北の起点の町だが、紀元前1000年頃にはケルト人が砦を築いていたという。
7世紀にアイルランド人司教キリアンがこの地で殉教した後、8世紀には司教座がおかれ、司教領主(教会内部だけでなく、町全体の支配権を有した司教)の下で発展を遂げた町らしい。
長崎の出島で活躍したシーボルトやX線を発見し、最初のノーベル物理学賞を受賞したヴィルヘルム・レントゲンの出生地でもあるらしい。
私たちがバスを降りて最初に向かったのは、世界遺産「レジデンツ」だった。
ここは1720~44年に建てられた大司教が暮らした宮殿である。今回はオプショナルで入場した。(旅行会社は、こんな凄い世界遺産に初めから入場する計画を立てるべきだと思った)
バロック調に作られた絢爛豪華に飾られた広大な部屋が幾つもあり、およそキリスト教会の司教の住まいというイメージとはかけ離れ、フランスのベルサイユ宮殿を小型にした様な所だった。
2階に上がる「階段の間」(広さは33×18m)の2階までの吹き抜けの天井に描かれた見る者を圧倒するフレスコ画は、世界一の一枚絵のフレスコ画だという。
去年、バチカンの美術館に行った時に感じたのと同じく、信者には清廉潔白を説きながら、権力を持った大司教たちは庶民とは余りにもかけ離れた暮らしぶりだったのだ。
裏庭
(調べて見たら、マルチン・ルターの宗教改革の影響を受けた農民たちが、1524年に教会と諸侯の圧政に対して次々と各地で釜や槍などを持って蜂起したドイツ農民戦争では、司教領主たちが結束して立ち向かった。その時「ライブハイム」では、1000人の農民が虐殺され、ドナウ川に捨てられ、全土では10万人の農民が殺害されたという悲惨な歴史もある。最も多くの農民が戦った地域は「チューリンゲン」だったらしい。この後、農民への搾取はますます強まったと言う)
その後歩いて大聖堂に向かい、市庁舎の前を通り、マイン川にかかった「アルテ・マイン橋」に行った。橋は観光の名所だけでなく、市民の憩いの場らしく大勢の人々が行き交っていた。
奥が大聖堂、左が市庁舎
その橋から北側を見ると葡萄の段々畑が広がっていた。反対側を見ると小高い丘の上に「マリエンブルク要塞」が見えた。ここは「レジデンツ」が建つ1719年まで歴代大司教の居城、兼要塞だったところだと言う。
(写真の様に橋脚の全てが水中にむき出しではなく、水の強さを弱めるため上下の流れに向かって石と土を盛って守っていた。感心した。)
観光を終え、バスはホテルがある120km西のフランクフルトを目指した。その夜から「シェラトン・コングレスホテル」に3泊した。