穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

フッサール教授の文章が明晰な場合

2016-04-05 09:15:13 | フッサール

相手を攻撃する場合、相手の主張を否定する場合の文章は分かりやすい。その意見に同調する(フッサール氏の意見に)しないに関わらずその文章は明快である。

ところが自分の主張を述べている所は非常に分かりにくい。前回武道の免許皆伝状みたいだと書いた。要するに「以下口伝」となるわけである。ちょっと錬金術の本みたいだな、という印象を持った。かれはユダヤ人だからカバラの秘術書かな。

カルテジアンの明証性がフッサールの導きの糸なのだろうが、階段を一段あがると早くも秘教めいてくる。現象学的還元でたどり着いた教説に問答無用の明証性があるかどうかは「現象学の理念」に実例がないから分からない。

内観といったかな、外界を一切遮断(エポケー)して自己の内部を見ろというのは、なんか宗教みたいだな。そんなことが出来るのだろうか。外界との相互交渉の経験によって大人になって行った人間が無垢の幼児のように(意識だけは成熟した大人のような十全の意識のある幼児の様に)なれるものであろうか。まさに手品であり、魔術であり、悟りでも開かなければ到底実現出来そうもない。

座禅による悟りみたいだ。

それとハッキリとしないのは、現象学的還元によってたどり着いた境地になんの意味があるのか。学として『全知識学の基礎』を確立して第一哲学の面目を現代に果たし得たというのだろうか。そして「自然の学」すべてを見返すということか。

現象学という学問は「現象として」属人性が強い。つまり現象学を名乗る学者が百人いれば百の現象学があるという現状である。なんだっけ、共主観性だったかな、苦しくなると色々と隙間を埋める造語をするが、も一向に効果がないようである。