1:簡単に言えば「デカルトとカントに倣いて」ということであろう。
「編者の緒論」より
抜粋1;当時のフッサールは徹底してカントに取り組んでいたので云々
抜粋2;1906年9月25日のフッサールのメモ(本書刊行の前年)
・ ・わたしは・・自分で解決しなければならない普遍的な課題をあげておく。理性の批判がそれだ。論理的理性と実践的理性、そして価値判断理性の批判だ。云々 抜粋おわり
カントの三批判書とおなじ枠組みである。デカルトについては至る所で「明証性」を述べているから引用するまでもない。
2:主観と客観との関係;
素朴実在論の範疇に入るのではないか。「現象学の理念」78頁に「事物の超越性が、云々」とある。客観が主観を超越しているということだろう。カントなら客観から超越して「超越論的(アプリオリ)な主観の枠組みがある」という所だから主客の視点が逆転している。しかし川の西岸からみれば東岸は彼岸(超越している)であるが東岸から見れば西岸は超越しているわけだから問題はなかろう。いずれにせよ懐疑主義ではないようである。
3:主観から客観へのアクセシビリティ:
カント 物自体の把握は不可能、
フッサール (直感による現象学的還元を経て)アクセス可能と言っている様にもとれる(判然としない)、悟りのようなものかな。何れにしてもヨガ体操のようなアクロバッティックな主観の努力でチラ見(覗き見)は出来ると希望を持たせる書き方である。
4:主観と客観との関係については、その他に客観側からの一方的な恩恵的アクセスが可能とする立場がある。啓示、恩寵(シェリングなど)
また主観と客観を強引にアマルガメイトするヘーゲルのようなやり方もある。
いずれにせよ、フッサールの書き方は曖昧である。大体フッサールには体系があるのかな。
ハイデガーは絶えざる問いかけ(祈祷)により存在が開示されることがあるとしている。