穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

メルロ=ポンティの性曼荼羅

2016-04-25 08:23:38 | 哲学書評

注:以下括弧でくくった引用文は鷲田清一著(メルロ=ポンティ)からのもので、

『』はMPからの引用文(翻訳)、「」内は鷲田氏の地の文である。数字はページ数である。

「人間的主体から存在へと後期MPの思考はその地平を転移させていた」258

というわけで、存在が気になりだした。当然の行き着くさきとも言える。かりに存在を物自体と置き換えてみよう。カントが物自体(存在なんて人間には分かりはしないよ)といった。大多数の哲学者にとっては(決めつけられた)ように感じた。反発は様々ある。反発の様態によって以後の哲学を分類することも可能である。大別すると:

1:啓示、恩寵によって突然存在が人間(個人)に開示される。シェリングなど

2:存在と人間という二分法は間違いである。すべては絶対精神の弁証法的展開であるといったヘーゲル流の対応

3:そんな命題をひねくり回しても始まらない。人間は、個人としてすでに世界に投げ出されている。とにかく、あるいはとりあえずはそれを受け止めるしかない。古くはキルケゴール、サルトル等の実存主義の系統,ハイデガーも一面ではこの流派といえる。

4:いや、人間の努力で存在はチラ見できる、という希望を述べるもの。この流派は西欧伝統の魔術と言うか魔道に通じる。いやゆる招魂術ね。これにも分派がある。ハイデガーは(常時、怠り無く存在に問いかける=祈祷をささげる)ことにより、ひょっこりと存在はご開帳される、という。つまりハイデガーは両刀使いである。

 

さてMP晩年の境地や如何に。

『それらと根底では同質だと感ずることがあり・・・・・彼の肉の延長のごときものにある』271

「わたしの身体は世界と同じ肉でできているといわれるわけであり・・・・」271

「MPは裂開と呼んでいる。このよう裂開のなかで、」『われわれが物のなかへ移行するのと同様に、物がわれわれのうちに移行するのである』271

これらの引用のほかにも同様の趣旨の記述があちこちにある。

つまりこれはご開帳派というより、合衾派といえる。つまりチベットの性曼荼羅の世界と言える。

合衾という言葉は辞書に出ていないかも知れない。ようするにベッドをともにするという意味である。ゴウキンと読む、漢音ならゴウコンとも発音する。蛇足ながら付け加える。