穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

前回記事訂正と心身二元論の補足

2016-04-11 08:11:33 | 哲学書評

鷲田清一氏のメルロ=ポンティ紹介について書いた前回の記事の訂正です。

幻視>>幻影肢 どうも表音的に注意せずに漢字にしていると間違えます。 

訂正の機会に若干の補足をしておきましょう。

鷲田氏の著書の102頁ですが「幻影肢が一方では生理的諸条件に依存し、その限りでは第三者的な因果関係の結果でありながら・・云々」

この第三者的というのはおかしい。自分のことでしょう。第三者的というのは後知恵で渾然一体の人間を心身に分離加工したから出て来た言葉でしょう。そういう意味では現象学的還元の処理をして始源に遡及して到達した底ではありません。あくまでも人工的な二次加工品的記述です。

 デカルト以来の心身二元論の統一を試みたのはM=Pが初めてと書いてあったと思いますが、そうでしょうか。たとえばショーペンハウアーも心身の、なんというのか、親密性というか、一体性というのか、そう言う問題に触れていたところがあったと思います。

 科学を否定するのは問題だが、科学を変に(通俗科学者の様に)援用するのは慎むべきでしょう。師匠のフッサール教授がいったように。ようするにカエサルの物はカエサルに、です。

 私のこころ、私のからだという二元論は始源的ですが、からだ一般(普遍)、種としての、或は類としての人間のからだ(普遍あるいは間主観性?)と加工するのはもはや還元からはもっとも離れた物であるということです。

 


小保方晴子さんのスタップ細胞騒動を思い出す

2016-04-11 00:30:18 | 哲学書評

鷲田清一「メルロ=ポンティ」講談社の最終章から読んだ。なかなか面白いことを言う人だな、と思った。それで始めの方を読んだんだが、どうもいけない。 

MPの心身問題の捉え方を素人に分かりやすく解説しようと思ったのだろう。手足を失った人の幻影肢を取り上げている。この例がいけなかったのか、ますます訳が分からなくなっている(説得力が弱くなっている)。

高校生の頃、親類の新興宗教に関係した人間がいて、その会の講演会に連れて行かれた。霊だとか魂の宣伝をするのだが、講演者の肩書きがみんな工学博士とか何々大学理学部教授という肩書きなんだな。素人を恐れ入らせるには自然科学でも説明出来る「安心な」宗教なんだよ、というつもりだろう。

子供心にもこう言うやり方はいんちき臭いと拒否反応かあったんだな。それを思い出した。M=P氏は縁辺の自然科学系の勉強もしたらしい、それも現象学を始めてから、現象学の理論を補強するために。よくないね。コリン・ウィルソンも思い出した。これじゃ私心無く現象学的還元など出来ないだろう。

幻影肢には純自然科学系の説明があると思う(私は専門家ではないが)。少なくとも仮説はあるでしょう(純自然科学系の、自然科学系というのは精神医学や生理学を含む)。現象学に箔をつけるために援用すべきではない。

現象学というのは自然科学に対していやに斜に構えるものだと思っていた。それでも吾往かんという心意気があると思っていたのにな。