哲学というシマを守ろうとする砦としては倫理学とか世界観とかいうのがある。通常そこへ逃げ込む哲学者が多いが、フッサール教授は認識論一本やりらしい。というのも彼の他の本を読んでいないので。しかしフッサールの簡単な評伝を読むと現象学のことしかでていない。現象論的倫理学というのがあるのかもしれない。
フッサール商店の間口は非常に狭い。認識論しか売っていない。そのかわり奥行きは次の道路まで続くほど長いのだろう。京都の商店のように。
応用なんて俗っぽい表現を使ってはいけないのかもしれない。倫理学への応用なんて。それはともかく、俗人には認識論というからには他の学問の基礎のように思われる。つまり諸学の基礎ね。
弟子は師匠に似るという。「現象学の理念」の前に『編者の緒論』というのがついている。師匠のスタイルによく似ている。他人を非難する文章は明快だが、自分の思想になると途端に曖昧になる。本人は「明快に」といっているが。
それはさておき、現象学と諸学(特に科学)との関係について注目すべき文章があった。頁x「客観的学問の十全ならざる欠陥をおぎなうのは、その学問の、その学問だけに固有の、仕事なのだ。」分かりました、先生。
しかしね、と物わかりの悪い小生はいう。本文中にフッサール教授は「的中」という高尚な現象学とは不似合いな俗っぽい言葉を頻発する。馬券みたいだ。ロト6みたいだ。現象学的還元で到達した主観的意識が客観的事実或は法則を的中させるということの様に読める。つまりフッサールが目の敵にしたであろう、「論理実証主義」やウィトゲンシュタインのいう検証(された真理値)と同じと受け取ったが間違いかな。