3日土曜夜
カントの命題にそう目くじらをたてることはないのだが
物自体は人間には認識出来ない、という命題は提示の仕方が挑発的だったがムキになるほどのとげがあるわけではない。当たり前のことをいったのだが、相手は脇腹に拳銃を突きつけられたように感じた。
コペルニクス的転換でもなければおかしなことでもない。当たり前のことだ。だがカントの様に提示されるとなんだか自分の無能を指摘された様に感じる。とくに青年は好きな女と交際してはいけないと言われた様にかんじるものらしい。。カントは18世紀の終わりに活躍した人だが、19世紀はカントが巻き起こした「衝撃」に対する応答に終始した。いずれもカントが立てた命題の枠内で論争したのである。
察するにお前は(人間は)大したことを知ることは出来ないんだよと言われた様に感じたのだろう。そうではない。物を認識するには人間には人間のやり方があるんだよ、と言っただけなのに。
さてこのブログで3月11日にカントに対する哲学者たちの応答を一応ハイデガーまでかいつまんで書いた。「現代哲学」は不案内なので端折ったわけである。ところで今マルロ・ポンティの解説を読んでいるので、彼の場合は物自体問題をどう扱っているのか、批判しているのか、無視しているのかと思った。
どうもはっきりしないね。二十世紀にいまさらというのかもしれない。フッサールは先に紹介したメモで明確にカントから出発したといっているわけで認識論である以上当然に「物自体」に触れるべきなのにはっきりしないようだ。もっとも彼の浩瀚な著書をしらみつぶしに読めば見つかるのかも知れない。MPの場合も似たようなものらしい。つまり正面切って論じない。
ただMPお得意の二分方で世界とか存在という時にはどうも物自体の親戚のように感じる。現象学的還元をすれば物自体と私の未分化時代の状態(まるで母胎内にいるみたいだ)が体験出来るとか、肉が裂けて割れ目に我が包み込まれるなどという表現(チベット密教の性儀式みたいだね)は物自体と自分が一体化の境地に達すると言っている様にもとれる。とにかく肝心なところは曖昧にするのが現象学らしい。ぼかし絵というかね。
あと、カントの先験的カテゴリーと現象学的還元の比較も面白そうだが今回はここまで。
鷲田氏も解説でしきりに弁証法といっているから、MP氏の立論も弁証法がおおいのだろう。彼の説明が首尾一貫して明確というわけでもないが、一応特徴というのはある。
彼の場合は最初から二項対立がある。また両者が合金化すなわち昇華して一段と高いレベルに変化するという論法ではない。あくまでも対立は対立のままである。もっとも「すべてを包む肉の裂開」だったかな、そういう表現もあれば「始原の状態」みたいな表現もあったような。ようするにプロセスをたどって上昇していくという弁証法はない。つまり不連続的に、かつ予測しがたい偶然性によって新しい段階に入る、ということか。
二項の間に交渉や干渉はある。ただシステムがないからいきなり不可抗力のような雪崩現象でフェーズが変わる。このよう印象を受けているが正しいのだろうか。
上記の念頭にあるのはヘーゲルのそれですが、弁証法ということばは多義的(両義的どころではない)ですからMPのは独創か別に起源があるのかわかりません。
次回は物自体との関連あるいは非関連について