穴村久の書評ブログ

漫才哲学師(非国家資格)による小説と哲学書の書評ならびに試小説。新連載「失われし時を求めて」

哲学は科学の通俗的解説あるいは解釈ではない

2016-04-14 08:59:24 | 哲学書評

最近(最近というのは思い返してみるとここ数十年ということかもしれないが)書店の人文・哲学書棚では現代というか、その種の著作に当てられたスペースが大部分を占めている。勿論大書店にいけばデカルトからドイツ観念論からフッサール当たりまでのスペースもある程度ある*。十数年前までは、それが分析哲学だったようだ(古典哲学に対して)。それが最近では曰く構造主義、ポスト構造主義、脱構築、ポストモダン、ポストコロニアルなど。

*  所謂ポストモダンのモダンというのはデカルトからフッサール当たりまでを含めて「モダン」というらしい。そして上記の諸潮流も西欧「モダン」の思想を十把一絡げにして否定するものらしい。もっとも簡単に通約は出来ないようだが。

私は何を言いたいのか。私もこの種の『現代』の哲学書を読まないと読む物が無くなってしまった。だから書評もそちらを取り上げようかと、こういう訳です。

その線で鷲田清一氏の「M=P」も批評しているわけです。

これらの傾向を瞥見するに縁辺科学からの援用が非常に多い。哲学が学際化してはおしまいだと思います。まったくの私見ですが、哲学が通俗科学の解説書のように見える。

鷲田氏が引用しているM=Pの一節に次のようなところがある。107頁

「身体は諸器官の外的な寄せ集めではなく、その諸部分は互いに相手の中に包み込まれて存在している・・・・云々・・・・」

当たり前でしょう。そしてあまりにも諸部分に比重をかけすぎた反省が医学の世界にある。Holisticという考え方もその一つでしょう。これからM=Pがどう続けるのか読んでいないが、縁辺科学の所見、見解を援用するようなことは興ざめです。

哲学はあくまでも紙と鉛筆でやってほしい。大分前にこのブログで科学哲学の批評をしたときに、科学哲学は独創的な科学者が散らかした研究室の掃除をするお手伝いだと書いたことがあります。大陸系(フランス人が多いようだが)の現代哲学も同様の印象がある。